・・・またある痕は、細長く深く切れ込み、古い本が紙魚に食い貫かれたあとのようになっている。 変な感じで、足を見ているうちにも青く脹れてゆく。痛くもなんともなかった。腫物は紅い、サボテンの花のようである。 母がいる。「あああ。こんなにな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・霜解け、夕凍み、その匂いには憶えがあった。 ひと月ふた月経った。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、いつの間にか怪しい不協和に陥っていた。遠くの父母や兄弟の顔が、これまでになく忌わしい陰を帯びて、彼の心を紊した。電報配達夫が恐ろしかった。・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油が染みてな」義母が峻にそう言った。「もっとぎうとお出し」姉は怒ってしまって、邪慳に掌を引っ張っている。そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。「もう知らん、放っといてやる」しまいに姉は掌を・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・先ほども言ったように失敗が既にどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変に憶い出せなくなって来たりした。読み返しては訂正していたのが、それも・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 肉を炙る香ばしい匂いが夕凍みの匂いに混じって来た。一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。「俺の部屋はあすこだ」 堯はそう思いながら自分の部屋に目を注・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・刻みつけしこの痕跡は深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解の文を二郎が友、われに送りぬ。げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、美わしき花咲きてその実は塊なり。 二郎が家に・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・小学校の同僚もなんぞと言えばどこの娘は別嬪だとか、あの娘にはもう色があるとか、そんな噂をするのは平気で、全くそれが一ツの楽しみなのですから、私もいつかその風に染みまして村の娘にからかって見たい気も時々起したのでございます。さすが母の戒めがあ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃が金で書いてある顔回の瓢、耶蘇の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・部屋部屋の柱が凍み割れる音を聞きながら高瀬が読書でもする晩には、寒さが彼の骨までも滲み徹った。お島はその側で、肌にあてて、子供を暖めた。 この長い長い寒い季節を縮こまって、あだかも土の中同様に住み暮すということは、一冬でも容易でなかった・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫