・・・盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。 ふと見れば、乗合自動車が駐る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・官に申出る、と監督官は降参人の今日の凹み加減充分とや思いけん、もう帰ろうじゃないかと云う、すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと婆さんの問に敗余の意気をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴って秋気来るヘン 忘月忘日 例の自転車を・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・は、その惑溺の最中に書いた抒情詩の集編であり、したがつてあのショーペンハウエル化した小乗仏教の臭気や、性慾の悩みを訴へる厭世哲学のエロチシズムやが、集中の詩篇に芬々として居るほどである。しかし僕は、それよりも尚多くのものをニイチェから学んだ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない! 町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・それに黴の臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇的に鼻を衝いた。その臭気には靄のように影があるように思われた。 畳にしたら百枚も敷けるだろう室は、五燭らしいランプの光では、監房の中よりも暗かった。私は入口に佇んでいたが、やがて眼が闇・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・土にはまるでそれが腐屍ででもあるように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。 彼は、口から頬へかけて泥だらけになって昏々と死のように眠った。 朝、深谷は静かに安岡の起きるのを待っていた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・然りといえども、学者中たといこの臭気の人物ありとするも、これを処することまた、はなはだ易し。まず利禄をもっていえば、学校の官私を問わず、俸給はいぜんとして旧の如くなるべし。また、利禄をさりて身分の一段にいたりては、帝室より天下の学者を網羅し・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ ついでまた朋友親戚等より、某国産の銘葉を得て、わずかに一、二管を試みたる後には、以前のものはこれを吸うべからざるのみならず、かたわらにこれを薫ずる者あれば、その臭気を嗅ぐにも堪えず。もしも強いて自からこれを用いんとすれば、ただ苦痛不快・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・おまけに其臭気と来たらたまった者じゃない。併し其苦痛も臭気も一時の事として白骨になってしまうと最早サッパリしたものであるが、自分が無くなって白骨許りになったというのは甚だ物足らぬ感じである。白骨も自分の物には違い無いが、白骨許りでは自分の感・・・ 正岡子規 「死後」
○こう生きて居たからとて面白い事もないから、ちょっと死んで来られるなら一年間位地獄漫遊と出かけて、一周忌の祭の真中へヒョコと帰って来て地獄土産の演説なぞは甚だしゃれてる訳だが、しかし死にッきりの引導渡されッきりでは余り有難くないね。けれ・・・ 正岡子規 「墓」
出典:青空文庫