・・・燃え下がった蝋燭の長く延びた心が、上の端は白くなり、その下は朱色になって、氷柱のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛り上がっている。澄み切った月が、暗く濁った燭の火に打ち勝って、座敷はいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・強いて推察して見れば、この百物語の催しなんぞも、主人は馬鹿げた事だと云うことを飽くまで知り抜いていて、そこへ寄って来る客の、或は酒食を貪る念に駆られて来たり、或はまた迷信の霧に理性を鎖されていて、こわい物見たさの穉い好奇心に動かされて来たり・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・その頃より六郎酒色に酖りて、木村氏に借銭払わすること屡々なり。ややありて旅費を求めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所へゆきし一瀬が跡追いてゆかんに、旅費なければこれを獲ぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。「馬車はまだかの?」「先刻出ましたぞ。」 答えたのはその家の主婦である。「出たかの・・・ 横光利一 「蠅」
・・・二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どれも朱色の塗で、鳥のように擡げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。 生花の日は花や実をつけた灌木の枝で家の中が繁った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対い、それを断り落す木鋏の鳴る音が一日・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫