・・・ ドイツの下宿屋で、室に備え付けの洗面鉢を過ってこわしたある日本人が、主婦に対して色々詫言を云うのを、主婦の方では極めて機嫌よく「いや何でもありません、ビッテ、シェーン」を繰返していた。そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 奧の間からこの家の主婦が出て来た。髪が真黒で顔も西洋人にしてはかなり浅黒く、目鼻立ちもほとんど日本人のようである。少しはにかんだような様子をして握手をした。しかし何も話さないで黙ってコオヒイを入れ始めた。 B君の説明によると、この・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・黒田が此処に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛け・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて、今のような家庭の主婦となったことについては、彼女自身ははっきり意識していないにしても、私の感じえたところから言えば、多少枉屈的な運命の悲・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・啻に自身の不利のみならず、男子の醜行より生ずる直接間接の影響は、延て子孫の不幸を醸し一家滅亡の禍根にこそあれば、家の主婦たる責任ある者は、自身の為め自家の為め、飽くまでも権利を主張して配偶者の乱暴狼藉を制止せざる可らず。吾々の勧告する所なり・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・嫁しては主夫の襤褸を補綴する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の流行に誘われて世を誤るべきのみ。もとより農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・ それからなるべく心を落ちつけてだんだん市に近づきますと、さすがはばけもの世界の首府のけはいは、早くもネネムに感じました。 ノンノンノンノンノンといううなりは地の〔以下原稿数枚分焼失〕「今授業中だよ。やかましいやつだ。用があ・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・配給と買出しにしばられて、会合に出席する時間さえもてないでいる主婦たちの毎日が、どんなに凌ぐに張合あるものとなって来るだろう。大小の軍需成金たちは、戦時利得税や、財産税をのがれるために濫費、買い漁りをしているから、インフレーションは決して緩・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
出典:青空文庫