・・・ 伝内はこの一言を聞くと斉しく、窪める両眼に涙を浮べ、一座退りて手をこまぬき、拳を握りてものいわず。鐘声遠く夜は更けたり。万籟天地声なき時、門の戸を幽に叩きて、「通ちゃん、通ちゃん。」 と二声呼ぶ。 お通はその声を聞くや否や・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」 稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・誰かに精しく訊いてから出直すつもりでいると、その中に一と月ほど経って、「小生事本日死去仕候」となった。一代の奇才は死の瞬間までも世間を茶にする用意を失わなかったが、一人の友人の見舞うものもない終焉は極めて淋しかった。それほど病気が重くなって・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ポマードでぴったりつけた頭髪を二三本指の先で揉みながら、「じつはお宅の何を小生の……」 妻にいただきたいと申し出でた。 金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は、おそらく物心ついてからの口癖であるらしく、表情一つ動かさず、しいてい・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ョーワッピョー鳩ッぽッぽウ』と調子を取られ候くらい、母上もまたあえて自らワッペウ氏をもって任じおられ候、天保できの女ワッペウと明治生まれの旧弊人との育児的衝突と来ては実に珍無類の滑稽にて、一家常に笑声多く、笑う門には福来たるの諺で行けば・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・候、内一枚は上田の姉に御届け下されたく候、ご覧のごとくますます肥え太りてもはや祖父様のお手には荷が少々勝ち過ぎるように相成り候、さればこのごろはただお膝の上にはい上がりてだだをこねおり候、この分にては小生が小供の時きき候と同じ昔噺を貞坊が聞・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ あらず、あらず、彼女は犬にかまれて亡せぬ、恐ろしき報酬を得たりと答えて十蔵は哄然と笑うその笑声は街多き陸のものにあらず。 二郎は頭あげて、しからばかのふびんなる少女もついには犬にかまるべきか。 犬や犬や浮世の街にさすろうもの犬・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・岩――の士族屋敷もこの日はそのために多少の談話と笑声とを増し、日常さびしい杉の杜付近までが何となく平時と異っていた。 お花は叔父のために『君が代』を唱うことに定まり、源造は叔父さんが先生になるというので学校に行ってもこの二、三日は鼻が高・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・お手紙を見て驚喜仕候、両君の室は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵快談するもさまたげず、是非此方へ御出向き下され度く待ち上候 すると二人がやって来た。「君は何処を遍歴って此処へ来た?」と・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫