・・・舟はするする滑って、そのまま小島の陰の暗闇に吸い込まれて行った。トトサン、御無事デ、エエ、マタア、カカサンモ。勝治の酔いどれた歌声が聞えた。 節子と有原は、ならんで水面を見つめていた。「また兄さんに、だまされたような気が致します。七・・・ 太宰治 「花火」
・・・若き頃より歯が悪く、方々より旅の入歯師来れどもなかなかよき師にめぐり合う事なく、遂に自分で小刀細工して入歯を作った。折紙細工に長じ、炬燵の中にて、弟子たちの習う琴の音を聴き正しつつ、鼠、雉、蟹、法師、海老など、むずかしき形をこっそり紙折って・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・In a word 久保田万太郎か小島政二郎か、誰かの文章の中でたしかに読んだことがあるような気がするのだけれども、あるいは、これは私の思いちがいかも知れない。芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問を連発して論敵をな・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・枯れた根株の、眉間と水落ちに相当する高さの個処へ小刀で三角の印をつけ、毎日毎日、ぽかりぽかりと殴りつけた。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・それで彼の仕事を正当に理解し、彼のえらさを如実に估価するには、一通りの数学的素養のある人でもちょっと骨が折れる。 到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・これはどちらが正当だか私には分らない、とにかくその時は全く恥じ入って、つい無意識にあやまってしまった訳である。 ともかくも代価の五拾銭を払おうとすると、どうしても主人が受取ろう云わない。困り入ってどうしたものかと考えながらその解釈を捜す・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・それはただ雑然たる小刀細工や糊細工の行列としか見えなかった。ダイアモンドを見たあとでガラスの破片を見るような気がした。しかし観客は盛んに拍手を送った。中途から退席して表へ出で入り口を見ると「満員御礼」とはり札がしてあった。「唐人お吉」にして・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・そうして自分がそれらのビーイングの正統の子孫であると考えてみた。そう思う事によってこの国土に対する自分の愛着の感情は増しても減りはしないような気がする。 最後に「長慶子」という曲を奏した。慶祝の意を表わしたもので、参会の諸員退出の時にこ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・この小品は気分本位の夢幻的なものであって、必ずしも現行の法令に準拠しなければならない種類のものでもないし、少なくも自分の主観の写生帳にはちゃんと青い燈火が檣頭にかかったように描かれているから仕方がないと思ったのである。 去年の暮には、東・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
出典:青空文庫