・・・粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れている。ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国へ帰ってから手当たり次・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・四畳半と覚しき間の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んであ・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ きのうの澄み切った空に引き易えて、今朝宿を立つ時からの霧模様には少し掛念もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇の社までは漕ぎつけた。白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・なるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗てその品位を増す者・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
海辺の五時夕暮が 静かに迫る海辺の 五時白木の 質素な窓わくが室内に燦く電燈とかわたれの銀色に隈どられて不思議にも繊細な直線に見える。黝みそめた若松の梢にひそやかな濤のとどろきが通いもしよ・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ 今私の手元に残るものとては白木の御霊代に書かれた其名と夕べ夕べに被われた夜のものと小さい着物と少しばかり――それもこわれかかった玩具ばかりである。 柩を送ってから十三日静かな夜の最中に此の短かいながら私には堪えられないほどの悲しみ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・そこをあけると、玄関が二畳でそこにはまだ一部分がこわれたので、組立てられずに白木の大本棚が置いてあり、右手の唐紙をあけると、そこは四畳半で、箪笥と衣桁とがおいてあり、アイロンが小さい地袋の上に光っている。そこの左手の襖をあけると、八畳の部屋・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・真新しい柱や梁の白木の色が、さえない砂の鼠色のところに際立って寒く見えた。 私共は、通りぬけて砂丘の間を過ぎ、広い波打ちぎわまで余程の距離のある海辺に出た。寂しく、風があり、寒い。左手はずっと砂丘つづきで、ぼんやり灰色にかすんでいる。其・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
出典:青空文庫