・・・しかし真と善との峰は、まだ雪をかぶった儘深谷を隔てているかも知れぬ。菊池の前途もこの意味では艱険に富んでいそうである。巴里や倫敦を見て来た菊池、――それは会っても会わないでも好い。わたしの一番会いたい彼は、その峰々に亘るべき、不思議の虹を仰・・・ 芥川竜之介 「「菊池寛全集」の序」
・・・が、その金切声の中に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜を刺戟すべく、余りに深刻なものであった。だからその時間中、倦怠に倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸の声を洩らしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・とき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。 三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起き・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・そうと心づいた予は実に父の生前石塔をつくったというについて深刻に後悔した。なぜこんなばかなことをやったのであろうか、われながら考えのないことをしたものかなと、幾度悔いても間に合わなかった。それより四カ月とたたぬうちに父は果たして石塔の主人と・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ 独りドストイフスキイの作品ばかりでなく他の有名なる名作は、事件そのことが異常なものがあるのは事実であるけれど、そのソロが深刻な感銘を与えるものでないことはやはり同じであります。たゞ其の中に含まれた真実を他にしては、芸術の力というものは・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・ どんな、複雑した、また、波瀾に富んだ事件であろうと、それについて真に深刻なる人生味を感ずる者は、実に、この経験者自身を措いて、他には決してないであろう。 所詮、芸術は、いかに如実に、現実を再現しようとしても、たゞ、事件それのみを語・・・ 小川未明 「何を作品に求むべきか」
・・・又小学校の時分に与えられた感化程深刻なものはない。ほんとうの人間性や、美くしい感情や、正しい事の観念などは、感激性にとむ少年時代に於てのみよく養われるのではないかと思う。この意味からしても、小学校の教育が多分に精神的要素をもっていることは明・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・私は深刻憂鬱な日々を送った。 阿部定の事件が起ったのは、丁度そんな時だ。妖艶な彼女が品川の旅館で逮捕された時、号外が出て、ニュースカメラマンが出動した。いわば一代の人気女であったが、彼女はこの人気を閨房の秘密をさらけ出すことによって獲得・・・ 織田作之助 「世相」
・・・けれど、思想のお化けの数が新造語の数ほどあって、しかも、どれをも信じまいとする心理主義から来る不安を、深刻がることを、若き知識人の特権だと思っているような東京に三年も居れば、いい加減、故郷の感覚がなつかしくなって来る筈だ。なつかしくなれば、・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・彼らの若い胸には偉大にして、深刻なる思想は訪ずれないのであろうか。時代が憂鬱ならば時代を転換せんとの意欲は起こらないのか。社会革新の情熱や、民族的使命の自覚はどこにおき忘れたのであろう。反逆の意志さえなきにまさるのである。永遠の恋、死に打ち・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫