・・・こうした男にいつまでも義理立てしている嫁の心根が不憫にも考えられた。「自家では女は皆しっかり者だけれど、男は自堕落者揃いだ。姨にしても嫂にしても。……私だってこれで老父さんには敗けないつもりだからねえ」……「向家の阿母さんが木村の婆さん・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭を借りて、ままごとのような理想的な新婚の楽しみに耽っていた。私も別に同じような亭を借りて、朝と昼とは彼らのところで御馳走になり、晩には茶屋から運んでくるお膳でひとり淋しく酒を飲んだ。Tは酒を飲まなかった。そ・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・何ぞその心根の哀しさや。会い度くば幾度にても逢る、又た逢える筈の情縁あらば如斯な哀しい情緒は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲間の、逢いたき情とは全然で異っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願い・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動は尋常でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於ける岩崎三井の・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・けれども、相手の心根を読んで掛引をすることばかりを考えている商人は、すぐ、その胸の中を見ぬいた。そしてそれに応じるような段取りで話をすすめた。彼は戦争をすることなどは全然秘密にしていた。 十五分ばかりして、彼は、二人の息子を馭者にして、・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗で、土のついた雑草の根だの石塊などを運んでいた。「奥さん、御精が出ますネ」 と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・たいへん難渋の文章で、私は、おしまいまで読めなかった。神魂かたむけて書き綴った文章なのであろう。細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪えがたい焦躁に、身も世もあらず・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・あとで少しずつ私にも気がついて来たのでございますが、この婆と娘は、ほんとうの親子で無いようなところもあり、何が何やら、二人とも夜鷹くらいまで落ちた事があるような気配も見え、とにかくあまり心根が悪すぎてみんなに呆れられ捨てられ、もういまでは誰・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・以上は、わが武勇伝のあらましの御報に御座候えども、今日つらつら考えるに、武術は同胞に対して実行すべきものに非ず、弓箭は遠く海のあなたに飛ばざるべからず、老生も更に心魂を練り直し、隣人を憎まず、さげすまず、白氏の所謂、残燈滅して又明らかの希望・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・茶会御出席に依り御心魂の新粧をも期し得べく、決してむだの事には無之、まずは欣然御応諾当然と心得申者に御座候。頓首。 ことしの夏、私は、このようなお手紙を、れいの黄村先生から、いただいたのである。黄村先生とは、どんな御人物であるか、それに・・・ 太宰治 「不審庵」
出典:青空文庫