・・・ この頃では夏が来るとしきりに信州の高原が恋しくなる。郭公や時鳥が自分を呼んでいるような気がする。今年も植物図鑑を携えて野の草に親しみたいと思っている。 寺田寅彦 「海水浴」
一 ほととぎすの鳴き声 信州沓掛駅近くの星野温泉に七月中旬から下旬へかけて滞在していた間に毎日うるさいほどほととぎすの声を聞いた。ほぼ同じ時刻にほぼ同じ方面からほぼ同じ方向に向けて飛びながら鳴くことがしばし・・・ 寺田寅彦 「疑問と空想」
・・・ひと月前の七月十三日の夜には哲学者のA君と偶然に銀座の草市を歩いて植物標本としての蒲の穂や紅花殻を買ったりしたが、信州では八月の今がひと月おくれの盂蘭盆で、今夜から十七日まで毎晩この温泉宿の前の広場で盆踊りがあるという。 盆踊りといえば・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・晩年には真宗の教義にかなり心を引かれていたそうである。 学生時代には柔道もやり、またボートの選手で、それが舵手であったということに意義があるように思われる。弓術も好きであって、これは晩年にも養生のための唯一の運動として続けていたようであ・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・帰りの汽車が追分辺まで来ると急に濃霧が立籠めて来て、沓掛で汽車を下りるとふるえるほど寒かった。信州人には辛抱強くて神経の強い人が多いような気がする。もしかすると、この強い日照と濃い濃霧との交錯によって神経が鍛練されるせいもいくらかはあるので・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・道太は東京を立つ時から繃帯をしていた腕首のところが昨日飲みすぎた酒で少し痛みだしていたので、信州で有名な接骨医からもらってきたヨヂュームに似たような薬を塗りながら、「お芳さんの旦那ってどんな人なの」「青物の問屋。なかなか堅いんですの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・それを真宗の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。言葉を換えて言えば親鸞は・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人が在世の時自ら愚禿と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・いうた、この王もこの国の民も非常に犬を愛する風であったがその国に一人の男があって王の愛犬を殺すという騒ぎが起った、その罪でもってこの者は死刑に処せられたばかりでなく、次の世には粟散辺土の日本という島の信州という寒い国の犬と生れ変った、ところ・・・ 正岡子規 「犬」
・・・○桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曾へ這入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒な実がおびただしくなっておる。見逃が・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫