・・・いつか顔を擡げた相手は、細々と冷たい眼を開きながら、眼鏡越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢のような、気味の悪い心地を起させるのだった。「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、ヨセフは、「この呪が心耳にとどまって、いても立っても居られぬような気に」なったのであろう。あげた手が自ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪いて、爪を剥がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれ・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍り。……さても三人一つ島に流されけるに、……などや御身一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかな・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立った儘大運搬船の上を見廻して見た。 寂然して溢れる計り坐ったり立っ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・やがて死んだのか宗旨代えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰れ憚らず思うさまの生活に耽っていたが、クララはどうしても父や父の友達などの送る生活に従って活きようと思う心地はなかった。その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・こう云う所まで来て見ると聖書から嘗て得た感動は波の遠音のように絶えず私の心耳を打って居ます。神学と伝説から切り放された救世の姿がおぼろながら私の心の中に描かれて来るのを覚えます。感動の潜入とでも云えばいいのですか。 何と云っても私を・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・こういう心事をもって、私はみずからを第一の種類の芸術家らしく装うことはできない。装うことができないとすれば、勢い「宣言一つ」で発表したようなことを言わねばならぬのは自然なことである。「宣言一つ」には、できるだけ平面的にものを言ったつもりだが・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、ものの影を見るごとき、四辺は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂まで潮が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸をするような仇光で、 と曳々声で、水を押し・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 碑の面の戒名は、信士とも信女とも、苔に埋れて見えないが、三つ蔦の紋所が、その葉の落ちたように寂しく顕われて、線香の消残った台石に――田沢氏――と仄に読まれた。「は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からな・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
出典:青空文庫