・・・或いは又、孫のハアモニカを、爺に借せと騙して取上げ、こっそり裏口から抜け出し、あたふた此所へやって来たというような感じでありました。珠数を二銭に売り払った老爺もありました。わけてもひどいのは、半分ほどきかけの、女の汚れた袷をそのまま丸めて懐・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・おそれいります。会津の藩士でございます。」「剣術なども、お幼い頃から?」「いいえ、」上の姉さんは静かに笑って、私にビイルをすすめ、「父にはなんにも出来やしません。おじいさまは槍の、――」と言いかけて、自慢話になるのを避けるみたいに口・・・ 太宰治 「佳日」
・・・女の慾というものは、男の慾よりもさらに徹底してあさましく、凄じいところがあるようでございます。私をその小都会に連れて行った婆さんも、ただものではないらしくある男にビールを一本渡してそのかわりに私を受け取り、そうしてこんどはその小都会に葡萄酒・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰く、事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑しく馬鹿らしい思いがし・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・騾車、驢車、支那人の爺のウオウオウイウイが聞こえる。長い鞭が夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹がはげしいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いていく。苦しい、息が苦しい。こう苦しくってはしかたがない。頼んで乗せてもらおうと思っ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・の父親か祖父ではないかと思われるのであった。 つい近ごろになってある新聞にいろいろなペットの話が連載されているうちに知名の某家の猫のことが出ていて、その三匹の猫の写真が掲載されていた。そのうちの一匹がどうも前述のいわゆるアンゴラに似てい・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・その夜学というのが当時盛んであった政社の一つであったので、時々そういう社の示威運動のようなものが行なわれ、おおぜいで提灯をつけて夜の町を駆けまわり、また時々は南磧で繩奪い旗奪いの競技が行なわれた。ある時はある社の若者が申し合わせて一同頭をク・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・ 俳句を修業するということは、以上の見地から考えると、退嬰的な無常観への逃避でもなければ、消極的なあきらめの哲学の演習でもなく、またひとりよがりの自慰的お座敷芸でもない。それどころか、ややもすればわれわれの中のさもしい小我のために失われ・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・忘れもしねえ、暑い土用の最中に、餒じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩って其処へ打倒れた。帰りはまた聿駄天走りだ。自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待ってい・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・道太の祖父の代に、古い町家であったその家へ、縁組があった。いつごろそんな商売をやりだしたか知らなかったが、今でも長者のような気持でいるおひろたちの母親は、口の嗜好などのおごったお上品なお婆さんであった。時代の空気の流れないこの町のなかでも、・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫