・・・ ネフリュードフに悪態をつくところ、牢獄でウォツカをあおって売笑婦の自棄の姿を示すとき、山口淑子は、体の線も大きくなげ出して、所謂ヴァンパイアの型を演じる。けれども、最後の場面で、政治犯でシベリアに流刑される人々にまじったカチューシャが・・・ 宮本百合子 「復活」
・・・下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていたせきは、軈て、顔を顰めながら、艶も抜けたニッケルの簪で自棄に半白の結び髪の根を掻いた。「全くやんなっちゃうねえ」 思案に暮れた独言に、この夜中で応えるのは、死んだ嫁が清元のさらいで貰った・・・ 宮本百合子 「街」
・・・大体ヴォルガは夏下るのが普通で、もう時季は少しおそいのです。然し河岸の樹木は紅葉しているし、天気は珍らしくおだやかだし石炭の煙はないし、実によい。私は河を船で下るなど、これが始めてですから大満足です。ヴォルガの河でロシヤのぼう大さを感じます・・・ 宮本百合子 「ロシアの旅より」
・・・この学校は働いている若い女性達が、全く自分で計画して、運営して、経済的にも充分次期計画を実行できるだけの余力を持って第一回を終りました。 各大学で自由大学や、市民大学を開いていて、新しい日本の文化を民主的な形で、市民の生活の中にもたらそ・・・ 宮本百合子 「若人の要求」
・・・けれども、最も低い声で囁けることは、こんな自己と外界との劇しい揉合いを誰でも一度は経験するとしたなら、いざ自己の落付こうとする時、殆ど無意識にとる精神的態度の如何によって、次期の渾沌が生ずる迄の幾年かの人格的趨勢を暗示されるのではないかとい・・・ 宮本百合子 「われを省みる」
・・・しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・女と云うものはある時期の来るまで、男の方のなさる事をじっとして見ていて、その時期が来ると、突然そう思いますの。「もうこうなれば、これから先はこの人のするままになるより外無い」と思いますの。男。そしてあの時そう思いなすったのですか。貴・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・しかし、これは云うべき時機であるが故に云ったにすぎない。いつまでも自分は感覚と云う言葉を云っていたくはない。またそれほどまでに云うべきことでは勿論ない。感覚は所詮感覚的なものにすぎないからだ。だが、感覚のない文学は必然に滅びるにちがいない。・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ 二 彼と妻との間には最早悲しみの時機は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分らなかった。その度に彼は医者を変えてみた。彼は最後の努力で彼の力の及ぶ限り死と戦った。が、彼が戦えば戦うほど、・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。 十 ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫