・・・ただいつか見たことのない事務室へ来たのに驚いている。―― 事務室の窓かけは日の光の中にゆっくりと風に吹かれている。もっとも窓の外は何も見えない。事務室のまん中の大机には白い大掛児を着た支那人が二人、差し向かいに帳簿を検らべている。一人は・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・その枝に半ば遮られた、埃だらけの硝子窓の中にはずんぐりした小倉服の青年が一人、事務を執っているのが見えました。「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」「な」の字さんもわたしも足を止めながら、思わず窓の中を覗きこみました。その青年が片頬・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮しい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見もせずに足にまかせてそのあとに※いて行・・・ 有島武郎 「親子」
・・・瀬古 君は芸術家の想像力を……花田 報告終わり。事務第一。さ、みんな覚悟はいいか。ともちゃん、さあ選んでくれ。とも子 私……恥ずかしいわ。瀬古 おまえの無邪気さでやっちまいたまえ。なに、ひと言、誰っていってしまえば、そ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・その友達は矢張西洋人で、しかも僕より二つ位齢が上でしたから、身長は見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいま・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・何日だっけ北海道へ行く時青森から船に乗ったら、船の事務長が知ってる奴だったものだから、三等の切符を持ってるおれを無理矢理に一等室に入れたんだ。室だけならまだ可いが、食事の時間になったらボーイを寄こしてとうとう食堂まで引張り出された。あんなに・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も思う男の人香に寄る蝶、処を違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、「立花さん。」「…………」「立花さん。」 襖の裏へ口をつけるばかり・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 留守はただ磯吹く風に藻屑の匂いの、襷かけたる腕に染むが、浜百合の薫より、空燻より、女房には一際床しく、小児を抱いたり、頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。 ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。 ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささ・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅が染む。「実際、厳いな。」 と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐい・・・ 泉鏡花 「朱日記」
出典:青空文庫