・・・これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食の眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がや・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・たとえば仏教思想の表面的な姿にのみとらわれた凡庸の歌人は、花の散るのを見ては常套的の無常を感じて平凡なる歌を詠んだに過ぎないであろうが、それは決してさびしおりではない。芭蕉のさびしおりは、もっと深いところに進入しているのである。たとえば、黙・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・そういう時に世人はよく理論と実際という常套語を持出して科学者の迂遠を冷笑するのが例である。世俗人情に関した理論などはいざ知らず、物理学上の方則は事実を煎じつめて得たもので嘘のあるはずはない。もし上記のような場合があればそれは理論の適用を誤っ・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
・・・ 処が人数を調べてみると、上等兵の大瀬だけが一人揚って来ねえ。そいつは大変だと云うんで、また忰を捜すと云う騒ぎだ。だが、何処を捜しても姿が見えねえ。……何でも秋山さんは深い水の底にあった、大きな木の株に挟まっていたそうでね、忰は首尾よく・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の Caf である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来る・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 探険の興は勃然として湧起ってきたが、工場地の常として暗夜に起る不慮の禍を思い、わたくしは他日を期して、その夜は空しく帰路を求めて、城東電車の境川停留場に辿りついた。 葛西橋の欄干には昭和三年一月竣工としてある。もしこれより以前に橋・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・あの劇がね、私の巣の中の世界とはまるで別物で、しかもあまり上等でないからだろうと思うんです。こう云うと、役者や見物を一概に罵倒するようでわるいから、ちょっと説明します。 この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨い物店の硝子窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は、そんな事には構わねえ。外に物欲しげな人間が見ているのを、振り返ってもみずに、面白げに飲んだり食ったりしゃあが・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・元来仕えるとは、君臣主従など言う上下の身分を殊にして、下等の者が上等の者に接する場合に用うる文字なり。左れば妻が夫に仕えるとあれば、其夫妻の関係は君臣主従に等しく、妻も亦是れ一種色替りの下女なりとの意味を丸出にしたるものゝ如し。我輩の断じて・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫