・・・ 爾来、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正には如何かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。 そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正は既にいないので、大いに失望・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ ただ一言する、『自分が真にウォーズウォルスを読んだは佐伯におる時で、自分がもっとも深く自然に動かされたのは佐伯においてウォーズウォルスを読んだ時である』ということを。 爾来数年の間自分は孤独、畏懼、苦悩、悲哀のかずかずを尽くした、・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのである。 私は、やさしくなってしまった。 あれから、もう五年経った。そうして今でもなお・・・ 太宰治 「鴎」
・・・四十四年帰朝後工科大学教授に任ぜられ、爾来最後の日まで力学、応用力学、船舶工学等の講座を受持っていた。大正七年三菱研究所の創立に際してその所長となったが、その設立については末広君が主要な中心人物の一人として活動した事は明白な事実である。大正・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・の水はまた爾来千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。 もちろん西洋にも荒海とほぼ同義の言葉はある。またその言葉が多数の西洋人にいろいろの連想を呼び出す力をもっていることも事実である。しかしそれらの連想はおそ・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下ラズト云フ。」 わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことが・・・ 永井荷風 「上野」
・・・の榎本氏を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむ・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたる・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・この事柄は敢て議論ではない、吾等の大教師にして仏の化身たる親鸞僧正がまのあたり肉食を行い爾来わが本願寺は代々これを行っている。日本信者の形容を以てすれば一つの壺の水を他の一つの壺に移すが如くに肉食を継承しているのである。次にまた仏教の創設者・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれ・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
出典:青空文庫