・・・ けれ共、私の悲しさをいやすべく、二親の歓びを助くべく、今まで見た事もない様な美くしい児を、何者かが与えて下すった事は、私には暁光を仰ぐと等しい事である。 二日の午前九時四十分 健康な産声を高々と、独りの姉を補佐すべく産れて来た・・・ 宮本百合子 「暁光」
・・・私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。 私は或一人の作家の生涯について二百五十・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 始め、此家が今に空くのだそうだ、と云うので、赤門前の男から知らされ、まだ、人が住んで居た時分、或夜、見に来た事があった。 勿論中へは入れない。崖の上の狭い平地の隅から、低い板塀越しに、中をちらりと覗いた丈であった。後、もう一遍、来・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・ その頃は長かった髪も頭の地の透く程短かく散斬りにし、頬の肉が前より一層こけたので、只さえ陰気であった顔は一倍凄くなった。 黒っぽい木綿の着物に白い帯をした彼が、特別にでも自分だけは粗末な品数の少ない食卓にしてもらって、子供達の話や・・・ 宮本百合子 「追憶」
彼女は耳元で激しく泣き立てる小さい妹の声で夢も見ない様な深い眠りから、丁度玉葱の皮を剥く様に、一皮ずつ同じ厚さで目覚まされて行きました。 習慣的に夜着から手を出して赤い掛布団の上をホトホトと叩きつけてやりながらも、ぬく・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・土をうなう手練の巧妙と熟達とを、仲間に誇ろうとはしないだろう。土を鋤く事は、よい穀物を立派に育てる為なのだと云う事を知っているのだ。 ○ 私が去年の夏行っていた、或る湖畔には、非常に沢山黒人がいた。白い皮膚を・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
・・・腹の空いたとき腹がなぜ空くかということがわかる、この腹の空いた嫌な気分を何処に持って行くかということがわかれば腹が空いたのも忘れて笑う。こういう生き方もまたわかる。そういうようなものが私どもの文学です。そういう意味では、男の作家も女の作家も・・・ 宮本百合子 「婦人の創造力」
・・・はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化を来す程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・さて持てきし薬など服して、木村氏のもとにありしが、いつまでも手を空くしてあるべきにあらねば、月給八円の雇吏としぬ。その頃より六郎酒色に酖りて、木村氏に借銭払わすること屡々なり。ややありて旅費を求めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性で、娘子の好く青年士官や、服屋の見本にかいてある男にある顔なのです。そこでわたくしは非常に反抗心を起したのです。どうにかして本当の好男子になろうとしたのですね。 女。それはわたくしに分か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫