・・・妙子はその間も漢口の住いに不相変達雄を思っているのです。いや漢口ばかりじゃありません。外交官の夫の転任する度に、上海だの北京だの天津だのへ一時の住いを移しながら、不相変達雄を思っているのです。勿論もう震災の頃には大勢の子もちになっているので・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――有王自身の事さえ、飛でもない嘘が伝わっているのです。現についこの間も、ある琵琶法師が語ったのを聞けば、俊寛様は・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・その代り今夜は姫への土産に、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。またお前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ。」 俊寛様は悠々と、・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・そうしてとうとうしまいには、越中褌一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲をとり始める所になった。 笑声はさらに高まった。兵站監部のある大尉なぞは、この滑稽を迎えるため、ほとんど拍手さえしようとした。ちょうどその途端だった。突然烈しい叱・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 一八 相撲 相撲もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家の裏の向こうは年寄りの峯岸の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山や梅ヶ谷の全盛を極めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」 片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・酔うといつでも大肌ぬぎになって、すわったままひとり角力を取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締めておいて、ぷっぷっと唾を霧のように吹き出すのには閉口した」 そんなことをおおげさに言いだして父は高笑いをした。監督も懐旧の情を催すら・・・ 有島武郎 「親子」
・・・私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。結核症であるのをまだあかされていないお前た・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・およそ、獅子大じんに牡丹餅をくわせた姉さんなるものの、生死のあい手を考えて御覧なさい。相撲か、役者か、渡世人か、いきな処で、こはだの鮨は、もう居ない。捻った処で、かりん糖売か、皆違う。こちの人は、京町の交番に新任のお巡査さん――もっとも、角・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・必ず軽忽なことをすまいぞ、むむ姉や、見りゃ両親も居なさろうと思われら、まあよく考えてみさっせえ。 そこで胸を静めてじっと腹を落着けて考えるに、私が傍に居ては気を取られてよくあるめえ、直ぐにこれから仕事に出て、蝸牛の殻をあけるだ。可しか、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
出典:青空文庫