一 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくな・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・人類相争う限り、彼らはまだ、その真の自由を得ていないという意味を示してみたいものである。」「お示しなさいな。御勝手に」「男」は冷ややかに答えた事がある。 そこで「加と男」の癖が今夜も始まったけれど、中倉翁、もはや、しいて相手になりた・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・多年愛し合った男女が別れて後互いに弱点を暴露して公に争うが如きは醜き限りである。願わくば別離を経験したことによって、前にも書いたようにその感情の質が深くそして濡れてくるような別離をしたいものである。愛する者の別離は胎盤が子宮から離れるように・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」 三 松木も丘をよじ登って行く一人だった。 彼は笑ってすませるような競争者がなかった。 彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・これは中々争うことの出来ない真理さ。しかも物理学上の明晰なる理だよ。イイカネ、例に挙げたものを能く能く考えて貰いたいのサ。ひとつもこの原則に撞着矛盾するものはない。ソコデ何故に物はかく螺線的運動をするのだというのが是非起る大疑問サ。僕がこの・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁が・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ こういう二人の人は激しく相争うような調子にも成った。「しッ――黙れ」「黙らん」「何故、黙らんか」「何故でも、黙らん――」 同じ人が裂けて、闘おうとした。生命の焔は恐ろしい力で燃え尽きて行くかのような勢を示した。おげ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・手柄を争う子供に似ていた。 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。「それがねえ、おばさ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・豪雨の一夜、郊外の泥道、這うようにして荻窪の郵便局へたどりついて一刻争う電報たのんだところ、いまはすでに時間外、規定の時を七分すぎて居ります。料金倍額いただきましょう。私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっか・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。 繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような・・・ 寺田寅彦 「学位について」
出典:青空文庫