・・・かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。 しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・…… 宿へ遁返った時は、顔も白澄むほど、女二人、杓子と擂粉木を出来得る限り、掻合わせた袖の下へ。――あら、まあ、笛吹は分別で、チン、カラカラカラ、チン。わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目を逸らさせたほどな・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 若旦那がいい声で、夢が、浮世か、うき世が夢か、夢ちょう里に住みながら、住めば住むなる世の中に、よしあしびきの大和路や、壺坂の片ほとり土佐町に、沢市という座頭あり。……妻のお里はすこやかに、夫の手助け賃仕事…… とや・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 鼻筋鋭く、頬は白澄む、黒髪は兜巾に乱れて、生競った茸の、のほのほと並んだのに、打振うその数珠は、空に赤棟蛇の飛ぶがごとく閃いた。が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、逆に立てた。二つ、三つ、四つ。・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も下に置かぬ前から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請った、新撰物理書という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通われぬと言うのではない。科目は教師が黒板に書いて教授するのを・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 預けた、竜胆の影が紫の灯のように穂をすいて、昼の十日ばかりの月が澄む。稲の下にも薄の中にも、細流の囁くように、ちちろ、ちちろと声がして、その鳴く音の高低に、静まった草もみじが、そこらの刈あとにこぼれた粟の落穂とともに、風のないのに軽く・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・ 天災地変の禍害というも、これが単に財産居住を失うに止まるか、もしくはその身一身を処決して済むものであるならば、その悲惨は必ずしも惨の極なるものではない。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自ら振作するの・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・あって、単に金銭の力のみでは到底得ることは出来ぬ、予を以て見れば、現時上流社会堕落の原因は、 幸福娯楽、人間総ての要求は、力殊に金銭の力を以て満足せらるるものと、浅薄な誤信普及の結果である。澄むの難く濁るの易き、水の如き人間の思潮・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」「女郎どもは、ま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 斯うなると文人は袋物屋さんや下駄屋さんや差配人さんを理想とせずとも済む。文人は文人として相当に生活できる。仮令猶お立派に門戸を張る事が出来なくとも、他の腰弁生活を羨むほどの事は無い。公民権もある、選挙権もある。市の廓清も議院の改造も出・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
出典:青空文庫