・・・僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。――そうして、非常ないびきをかいて――」「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」「時に天気はどうだい」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・なぜかと云うと元来この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟をつけて、髭を生やして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであります。フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・吾思う人の為めにと箸の上げ下しに云う誰彼に傚って、わがクララの為めにと云わぬ事はないが、その声の咽喉を出る時は、塞がる声帯を無理に押し分ける様であった。血の如き葡萄の酒を髑髏形の盃にうけて、縁越すことをゆるさじと、髭の尾まで濡らして呑み干す・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 安岡は研ぎ出された白刃のような神経で、深谷が何か正体をつかむことはできないが、凄惨な空気をまとって帰ったことを感じた。 ――決闘をするような男じゃ、絶対にないのだが。―― 安岡は、そんな下らないことに頭を疲らすことが、どんなに・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・数ヶ月の間、私の声帯はほとんど運動する機会がなかった。また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の所有に属するかは、多分、典獄か検事局かに属するんだろう――知らなかったが、私達の所有は断乎として禁じられてい・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・外国商売の事あり、内国物産の事あり、開墾の事あり、運送の事あり、大なるは豪商の会社より、小なるは人力車挽の仲間にいたるまで、おのおのその政を施行して自家の政体を尊奉せざる者なし。かえりみて学者の領分を見れば、学校教授の事あり、読書著述の事あ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・国の貧弱は必ずしも政体のいたすところにあらず。その罪、多くは国民の不徳にあり。一、政を美にせんとするには、まず人民の風俗を美にせざるべからず。風俗を美にせんとするには、人の智識聞見を博くし、心を脩め身を慎むの義を知らしめざるべからず。け・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・仏蘭西の政体は毎度変革すれども、教育上にはいささかも変化を見ず。その他英なり荷蘭なり、また瑞西なり、政事は政事にして教育は教育なり。その政事の然るを見て、教育法もまた然らんと思い、はなはだしきは数十百年を目的にする教育をもって目下の政事に適・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・ また、四民同権の世態に変じたる以上は、農商も昔日の素町人・土百姓に非ずして、藩地の士族を恐れざるのみならず、時としては旧領主を相手取りて出訴に及び、事と品によりては旧殿様の家を身代限にするの奇談も珍しからず。昔年、馬に乗れば切捨てられ・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・ 漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態固より同じからず。三千年前の項羽を以て今日の榎本氏を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫