・・・汚れた小倉の霜降りの洋服を着て、脚にも泥だらけのゲートルをまき、草鞋を履いている。頭髪は長くはないが踏み荒らされた草原のように乱れよごれ、顎には虎髯がもじゃもじゃ生えている。しかし顔にはむしろ柔和な、人の好さそうな表情があった。ただ額の真中・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・その後も毎朝のように運動場へ出たが、これまでにここを歩いた時のような爽快な心持ちはしなくなった。むしろ非常にさびしい感じばかりして、そのころから自分は次第にわれとわが身を削るような、憂鬱な空想にふけるようになってしまった。自分が・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ よく切れる鎌で薙いで行くのは爽快なものである。また草の根をぶりぶりかき切るのも痛快なものである。かゆい所をかくような気がする。 いろいろの草の根の張り方にそれぞれ相違のある事にも気がつく。それらの目的論的の意義を考えてみるのもなか・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷となり、桜草のことを言う人もない。 ダリヤは天竺牡丹といわれ稀に見るものとして珍重された。それはコスモス・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・着物の裾をからげて浅葱の股引をはき、筒袖の絆纏に、手甲をかけ、履物は草鞋をはかず草履か雪駄かをはいていた。道具を入れた笊を肩先から巾広の真田の紐で、小脇に提げ、デーイデーイと押し出すような太い声。それをば曇った日の暮方ちかい頃なぞに聞くと、・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・車夫は草鞋も足袋も穿かずに素足を柔かそうな土の上に踏みつけて、腰の力で車を爪先上りに引き上げる。すると左右を鎖す一面の芒の根から爽かな虫の音が聞え出した。それが幌を打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果しもない虫の音・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・と圭さんは薄黒く渦巻く煙りを仰いで、草鞋足をうんと踏張った。「大変な権幕だね。君、大丈夫かい。十把一とからげを放り込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」「あの音は壮烈だな」「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・――壮快じゃないか。あのむくむく煙の出てくるところは」「そのむくむくが気味が悪るいんだ」「冗談云っちゃ、いけない。あの煙の傍へ行くんだよ。そうして、あの中を覗き込むんだよ」「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・菅笠や草鞋を買うて用意を整えて上野の汽車に乗り込んだ。軽井沢に一泊して善光寺に参詣してそれから伏見山まで来て一泊した。これは松本街道なのである。翌日猿が馬場という峠にかかって来ると、何にしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫