・・・「何の用事もありませんが、そんなら立派な人の紹介状でも貰って上りましょう、」とブッキラ棒に答えてツウと帰った。 その頃私は神田小川町に下宿していた。忌々しくてならないので、帰ると直ぐ「鴎外を訪うて会わず」という短文を書いて、その頃在・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・そこでわれわれがこれを読みますときに「アア、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。私にはそういう真似はできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しま・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・と、笑談のようにこの男に言ったら、この場合に適当だろうと、女は考えたが、手よりは声の方が余計に顫いそうなので、そんな事を言うのは止しにした。そこで金を払って、礼を云って店を出た。 例の出来事を発明してからは、まだ少しも眠らなかったので、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・けれども、まだ年もゆかないのに、そんな遠いところまで、しかも晩方から出かけていくのが恐ろしくて、ついにゆく気になれなかったのでありますが、ある日のこと、あまり遅くならないうちに、急いでいってみてこようと、ついに出かけたのでありました。・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・一銭に四片というのを、私は六片食って、何の足しにということはなしに二銭銅貨で五厘の剰銭を取った。そんなものの五片や六片で、今朝からの空腹の満たされようもないが、それでもいくらか元気づいて、さてこの先どうしたものかと考えた。 ここから故郷・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑に落ちかねる振舞いといい、妙に勝手の違う感じがじりじりと来て、頭のなかが痒ゆくなった。夜の底がじーんと沈んで行くようであった。煙草に火をつけながら、歩いた。けむりにむせて・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫と無感覚になっているから、それで分らぬのだろう。また横臥で夢になって了え。眠ること眠ること……が、もし万一此儘になったら……えい、関うもんかい! 臥・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていう奴、そりゃ厭な奴だからね」「厭だって仕方が無いよ。僕等は食わずにゃ居られんからな。それに厭だって云い出す段になったら、そりゃ君の方の婆さんばかしとは限らないよ」 夕方近くになっ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静にして居なさい」 これは毎日おきまりの様に聞く言葉でした。そして、医師は病人の苦しんでいるのを見かねて注射をします。再びまた氷で心臓を冷すこと・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そしてその補片が、耳を引っ張られるときの緩めになるにちがいないのである。そんなわけで、耳を引っ張られることに関しては、猫はいたって平気だ。それでは、圧迫に対してはどうかというと、これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。さきほ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫