・・・観客から贔屓の芸人に贈る薬玉や花環をつくる造花師が入谷に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったとい・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがいよいよ増加した。初めに給仕を介したり或は名刺を差付けたりする者はまだしも穏な方であった。遂には突然僕の面前に坐・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・並んだ石燈籠の蔭や敷石の上にまるで造花としか見えぬ椿の花の落ち散っている有様は、極めて写実的ならざる光琳派の色彩を思わしめる。互いに異なる風土からは互いに異なる芸術が発生するのは当然の事であろう。そして、この風土特種の感情を遺憾なく発揮する・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・そして店々の飾窓には、いつもの流行おくれの商品が、埃っぽく欠伸をして並んでいるし、珈琲店の軒には、田舎らしく造花のアーチが飾られている。何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしま・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・古法古言を盲信して万世不易の天道と認め、却て造化の原則を知らず時勢の変遷を知らざるは、古学者流の通弊にこそあれ。人智の進歩は盲信を許さゞるなり。古人が女子を床の下に臥さしめて男天女地の差別を示したるは古人の発意にして、其意は以て人間万世の法・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・又学者の説に、医学医術等には男子よりも女子を適当なりとして女医教育の必要を唱え、現に今日にても女医の数は次第に増加すと言う。何れの方面より見ても婦人の天性を無智なりと明言して之を棄てんとするは、女大学記者の一私言と言う可きのみ。 又女は・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・大蔵省においては期せずして歳出を減じたることなれば、その金額をもってただちに帝室費を増加し、帝室はこの増額をもって学校保護の用にあてられたらば、さらに出納の実際に心配なくして事を弁ずること、はなはだ容易なるべし。ただに実際に心配なきのみなら・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・近来教育の進歩に随て言葉の数も増加し、在昔学者社会に限りて用いたる漢語が今は俗間普通の通語と為りしもの多き中にも、我輩の耳障なるは子宮の文字なり。従前婦人病と言えば唯、漠然血の道とのみ称し、其事の詳なるは唯医師の言を聞くのみにして、素人の間・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・これに反して智恵の分量は古来今に至るまで次第に増加して、智識少なき時は文明の度低く、智識多き時は文明の度高し。亜非利加の土人に智識少なし、ゆえに未だ文明の域に至らず。欧米人に智識多し、ゆえにその人民は文明の民なり。 されば今日の文明は道・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・『万葉』は主として主観的歌想を述べたるものにして客観的歌想は極めて少かりしが、『古今』以後、客観的歌想の歌、次第にその数を増加するの傾向を見る。 主観的歌想の中にて理屈めきたるはその品卑しく趣味薄くして取るに足らず。『古今』以後の歌には・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫