・・・これはその頃の習慣で、捕虜にはだれでも一応はこう聞いたものである。生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと屈服しないと云う事になる。自分は一言死ぬと答えた。大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛げて、腰に釣るした棒のような剣をするりと抜き・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
ニイチェの世界の中には、近代インテリのあらゆる苦悩が包括されてゐる。だれでも、自分の悩みをニイチェの中に見出さない者はなく、ニイチェの中に、自己の一部を見出さないものはない。ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・彼の眼をもしその時だれかが見たなら、その人はきっと飛び上がって叫んだであろう。それほど彼は熱に浮かされたような、いわば潜水服の頭についているのと同じ眼をしていた。 そして、その眼は恐るべき情景を見た。 それは筆紙に表わし得ない種類の・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ と斯うだ。だれかあとをつづけてくれ。」「ホウ、ホウ。」柏の木はみんなあらしのように、清作をひやかして叫びました。「第七とうしょう、なまりのメタル。」「わたしがあとをつけます。」さっきの木のとなりからすぐまた一本の柏の木がと・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・第三の精霊 ――第一の精霊 だれでも一度はうけるあまったるい苦しみじゃナ。そのあったかい涙をこぼして居られる中が花じゃと、私達の様になっては思われるワ。私達が若かった時――お事位の時には幸いあの精女の様な美くしい女は居なんだからその・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・』 そこでかれはだれもかれを信ずるものがないのに失望してますます怒り、憤り、上気あがって、そしてこの一条を絶えず人に語った。 日が暮れかかった。帰路につくべき時になった。かれは近隣のもの三人と同伴して、道すがら糸くずを拾った場所を示・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「それではまつのほかにはだれにも相談はいたさぬのじゃな」と、取調役が問うた。「だれにも申しません。長太郎にもくわしい事は申しません。おとっさんを助けていただくように、お願いしに行くと申しただけでございます。お役所から帰りまして、年寄・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・ここへ来ると、皆だれでも黙ってしまって問題をそらしてしまうのが習慣であるが、この黙るところに、もっとものっぴきのならぬ難題が横たわっていると見てもよかろう。 私は創作をするということは、作家の本業だとは思わない。作家の本業というのは、日・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・とにかく坊はソックリそのまま、わたしの心には、あの赤んぼうよりか、だれよりか可愛くッてならないのだよ」と仰有って、少しだまっていらっしゃると思ったら泣出して、「坊はね能くお聞よ。先におなくなり為って、遠方の墓に埋られていらっしゃる方に、似て・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そのためにからだをめちゃくちゃに破壊してしまいました。だれからも好かれてもらいたく思いませんでした。私は高等学校で教えている間ただの一時間も学生から敬愛を受けてしかるべき教師の態度をもっていたという自覚はありませんでした。……けれども冷淡な・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫