・・・六 駿馬痴漢を乗せて走るというが、それにしてもアノ美貌を誇る孔雀夫人が択りに択って面胞面の不男を対手にするとは余り物好き過ぎる。尤も一と頃倫敦の社交夫人間にカメレオンを鍾愛する流行があったというが、カメレオンの名代ならYにも・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の偽瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。おそらく世間における幸福がそれらを条件としているように。 私は以前とは反対に溪間を冷たく沈ませてゆく夕方を――わずかの時間しか地上に駐まら・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 見よ其裁判の曖昧なる其処分の乱暴なる、其間に起れる流説の奇怪にして醜悪なる、世人をして殆ど仏国の陸軍部内は唯だ悪人と痴漢とを以て充満せらるるかを疑わしめたり。怪しむ勿き也。軍隊の組織は悪人をして其凶暴を逞しくせしむること、他の社会より・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居を移そうと思い立つまでにこぎつけた・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・君自身の肉体の疲労やら、精神の弛緩、情熱の喪失を、ひたすら時代のせいにして、君の怠惰を巧みに理窟附けて、人の同情を得ようとしている。行きづまった、けれどもその理由は、申し上げません等と、なんという思わせ振りな懦弱な言いかたをするのだろう。ひ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・三田君は、戸石君と二人きりになると、訥々たる口調で、戸石君の精神の弛緩を指摘し、も少し真剣にやろうじゃないか、と攻めるのだそうで、剣道三段の戸石君も大いに閉口して、私にその事を訴えた。「三田さんは、あんなに真面目な人ですからね、僕は、か・・・ 太宰治 「散華」
・・・内地の生活の密度が濃いとでもいうのか、または、その密度の濃い生活とぴったり噛み合う歯車が僕たちの頭脳の中にあって、それで気持の弛緩が無く一時間の旅でもあんなに大仕事のように思われて来るのかね。とにかく、伊東の半箇年は永くて、重苦しく、たっぷ・・・ 太宰治 「雀」
・・・ヨーヨーの緊張時代のあとにコリントゲームの弛緩時代がめぐって来たものと見える。 三原山投身者もこの頃減ったそうである。 三 へリオトロープ よく晴れた秋の日の午後室町三越前で電車を待っていた。右手の方の空間で何・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・てその単純明白なモチーフが非常に多面的立体的に取り扱われているために、同じものの繰り返しが少しの倦怠を感ぜしめないのみならず、一歩一歩と高調する戯曲的内容を導いて最後の最頂点に達するまでに観客の注意の弛緩を許さないのであろう。 この映画・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・すなわち、こういう遅緩なテンポとリズムを使用することによって、ロシアの片田舎のムジークの鈍重で執拗な心持ちがわれわれ観客の心の中にしみじみとしみ込んで来るような気がしないことはない。 葬式の行列もやはりわれわれには多少テンポのゆるやかす・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫