・・・叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、「お絹ちゃんが今来るとさ。」と云った。「姉さんはまだ病気じゃないの?」「もう今日は好いんだとさ。何、またいつもの鼻っ風邪だったんだよ。」 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑を帯・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「美代ちゃんは今学校の連中と小田原へ行っているんだがね、僕はこの間何気なしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」 僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論何も言わずに彼の話の先を待っていた。「すると電車の中・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・またお前たちが元気よく私に朝の挨拶をしてから、母上の写真の前に駈けて行って、「ママちゃん御機嫌よう」と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮り通す瞬間はない。私はその時、ぎょっとして無劫の世界を眼前に見る。 世の中の人は私の述懐を馬・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・……ともちゃん、おまえもおなかがすいたろう。とも子 もう物をいってもいいの、若様。瀬古 いいよ。おなかがすいたろう。とも子 そんなでもないことよ。戸部うなる。どうしたの、戸部さん、あなた死ぬとこなの。まだ早いわ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・犬の身の辺には新らしいチャンの匂いがする。 この別荘に来た人たちは皆好い人であった。その好い人が町を離れて此処で清い空気を吸って、緑色な草木を見て、平日よりも好い人になって居るのだ。初の内は子供を驚かした犬を逐い出してしまおうという人も・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・―― が、これから話す、わが下町娘のお桂ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。 問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人の数に入ったが、照降町の背負商いから、やがて・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・「あァちゃんおりてみようか」「いけないよ、家へ行ってからでも見にこられるからあとにしなさい」「ふたりで見にきようねィ、あァちゃん」 姉妹はもとのとおりに二つの頭をそろえて向き直った。もう家へは二、三丁だ。背の高い珊瑚樹の生垣・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・お君さんとその弟の正ちゃんとが毎日午後時間を定めて習いに来た。正ちゃんは十二歳で、病身だけに、少し薄のろの方であった。 ある日、正ちゃんは、学校のないので、午前十一時ごろにやって来た。僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・沼南の金紋護謨輪の抱え俥が社の前にチャンと待ってるんだからイイじゃないか。社の者が沼南の俥を知らないとはマサカに思ってもいまいが、他の者が貧乏咄をすると自分も釣られて負けない気になってウッカリいってしまうんだネ。お目出たい咄サ。こんな処はマ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・このとき、家の内では、こたつにあたりながら、年子は、先生のお母さんと、弟の勇ちゃんと、三人で、いろいろお話にふけっていたのでした。「スキーできる?」と、勇ちゃんがききました。「ちっとばかり。」と、年子は答えた。「じゃ、明日、お姉・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
出典:青空文庫