・・・原子兵器を全人類にとっての癌たらしめまいと奮闘する仕事を中傷するものがあるとすれば、それは、自分も死ぬことを知らないで、ほくそえみながら厖大な棺の注文を皮算用している棺桶屋ばかりである。〔一九五〇年十月〕・・・ 宮本百合子 「私の信条」
・・・況や鴎外漁史は一の抽象人物で、その死んだのは、児童の玩んでいた泥孩が毀れたに殊ならぬのだ。予は人の葬を送って墓穴に臨んだ時、遺族の少年男女の優しい手が、浄い赭土をぼろぼろと穴の中に翻すのを見て、地下の客がいかにも軟な暖な感を作すであろうと思・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精しく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・絶えず隙間を狙う兇器の群れや、嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危い。と・・・ 横光利一 「微笑」
・・・全体を漠然と描いておいて、処々に細かい描写を散らしてあるのも、暗示的な描き方ではあるが、抽象的に過ぎる。思うに画家の目ざすところは、色と形の配合によって温泉の情趣を浮かび出させるにある。描かれるものの性質を確実につかむことによって、いや応な・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・なのであって、抽象的な道理なのではない。その「あるじ」が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスと・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・であるけれども、それは抽象的である。 彼女は芸術と美とを熱烈に愛している。音楽を聞く時には魂の滋養物を吸っているような態度である。花の匂いをかいだり、書物や画を見たりなどする時には、我れを忘れて非常な勢いで近寄って来る。彼女が美しい物の・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫