・・・これは十目の見るところ、百聞、万犬の実、その夜も、かれは、きゅっと口一文字かたく結んで、腕組みのまま長考一番、やおら御異見開陳、言われるには、――おまえは、楯に両面あることを忘れてはいけません。金と銀と、二面あります。おまえは、この楯、ゴオ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ 月下白光三千里の長江、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれて遥か前方に水の都、漢陽の家々の甍が朝靄の底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川・・・ 太宰治 「竹青」
・・・けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は争われず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やっぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるよう・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・あれがコイのヤマイの一ばんたしかな兆候だと思います。 片恋なんです。でも私は、その女のひとを好きで好きで仕方が無いんです。そのひとは、この海岸の部落にたった一軒しかない小さい旅館の、女中さんなのです。まだ、はたち前のようです。伯父の局長・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・み、まさか仏籬祖室の扉の奥にはいろうとは、思わなかったけれど、教壇に立って生徒を叱る身振りにあこがれ、機関車あやつる火夫の姿に恍惚として、また、しさいらしく帳簿しらべる銀行員に清楚を感じ、医者の金鎖の重厚に圧倒され、いちどはひそかに高台にの・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・机の前にだまって坐っていると、急に、しんと世界が暗くなって、たしかに眩暈の徴候である。暑熱のために気が遠くなるなどは、私にとって生れてはじめての経験であった。家内は、からだじゅうのアセモに悩まされていた。甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部・・・ 太宰治 「美少女」
・・・しかしアインシュタインは就学の自由を極端まで主張する方で、聴講資格のせせこましい制定を撤廃したいという意見らしい。演習なり実習なりである講義を理解する下地の出来たものは自由に入れてやって、普通学の素養などは強要しない。ことに彼の経験では有為・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙の更紗模様をボンヤリ見詰めて何か・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・三月九日帰朝早々から風邪を引き、軽い肺気腫の兆候があるというので大事を取って休養していたが、一度快くなって、四月五日の工学大会に顔を出したが、その翌日の六日の早朝から急性肺炎の症状を発して療養効なく九日の夕方に永眠した。生前の勲功によって歿・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・その当時理科大学物理学科の聴講生となって長岡博士その他の物理学に関する講義に出席した。翌三十五年助教授となり、四十二年応用力学研究のため満二年間独国及び英国へ留学を命ぜられ、これと同時に工学博士の学位を授けられた。四十四年帰朝後工科大学教授・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
出典:青空文庫