・・・われわれの日常生活に必要欠くべからざるものと通例思われている器具調度の類でも、実はそれを全廃してしまって少しもさしつかえのないものはいくらでもある。たとえば、西洋ならばどんな簡易生活でも、こればかりは必要と思われている椅子やテーブルがなくて・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・「忘れもしねえ、それが丁度九月の九日だ。私はその時、仕事から帰って、湯に行ったり何かしてね、娘どもを相手に飯をすまして、凉んでるてえと、××から忰の死んだ報知が来たというんだ。私アその頃籍が元町の兄貴の内にあったもんだから、そこから然う・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ブラヂルコーヒーが普及せられて、一般の人の口に味われるようになったのも、丁度その時分からで、南鍋町と浅草公園とにパウリスタという珈琲店が開かれた。それは明治天皇崩御の年の秋であった。 ○ 談話がゆくりなく目に見・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・太十はどの女にも嫌われた。丁度水に弾かれる油のようであった。それでも彼は昼間は威勢よく馬を曳いて出た。彼は紺の腹掛に紺の長いツツポ襦袢を着て三尺帯を前で結んで居た。襦袢の襟を態と開いて腹掛の丼を現わして居た。彼は六十越しても大抵は其時の馬方・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・カーライルの歿後は有志家の発起で彼の生前使用したる器物調度図書典籍を蒐めてこれを各室に按排し好事のものにはいつでも縦覧せしむる便宜さえ謀られた。 文学者でチェルシーに縁故のあるものを挙げると昔しはトマス・モア、下ってスモレット、なお下っ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 話が自分の経歴見たようなものになるが、丁度私が大学を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸来いと言って来たので、行って見ると、教師をやって見てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居なかっ・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・その上にもニイチェの名は、一時日本文壇の流行児でさへもあつた。丁度大正時代の文壇で、一時トルストイやタゴールが流行児であつた如く、ニイチェもまたかつて流行児であつた。そしてトルストイやタゴールが廃つた如く、ニイチェもまた忽ちに廃つてしまつた・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃が山のように積んであった。門の外から持ち込んだものだか、門内のどこからか持って来たものだか分らなかった。塵の下に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず、浅い楽小さい嘆に日を送って、己の生涯は丁度半分はまだ分らず、半分はもう分らなくなって、その奥の方にぼんやり人生が見えている書物のようなものになってしまった。己の喜だの悲だのというもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫