・・・こんなのもおおかた軍人党になるだろうと思って、過ぎたわが小半生の影が垣の外にちらつくように思う。突然向うの家の板塀へ何か打っつけた音がしたと思うと一斉に駆け出してそれきり何処かへ行ってしまった。凧のうなりがブンブンと聞えている。熱は追々高く・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛の女に給仕をさせて夕飯を食う。電燈の薄暗さ。出入する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入ったような、いかにも現代らしくな・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・そして遥か河下の彼方に、葛西橋の燈影のちらつくのを認めて、更にまた歩みつづけた。 * 葛西橋は荒川放水路に架せられた長橋の中で、その最も海に近く、その最も南の端れにあるものである。 しかしそれを知ったのは、・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・ 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交番所の燈のちらつくも静なるおもむきを添ふる折ふし五位鷺などの鳴きたる。 一、何心もなくあるきゐたる夜、あたりの物淋しきにふと初蛙の声聞・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ 飲料の貯水池が砲台の奥にあって、撃破されたコンクリートの天井が黒い澱み水の上に墜ちかかっているのが、ランターンのちらつく不安定な灯かげの輪のなかに照らし出されて来る。 グーモンへ着いた時には、落ちかかると早い日が山容を濃く近く見せ・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・行ってはかえり、行ってはかえり、茶色甲冑が嘘の頭だと観破している私でさえ、そう両方に、自信をもって動かれると、どちらが本当の頭だか、いやに眼がちらつくようになって来る。虫はちゃんとそれを心得、必死の勢いで丹念に早業を繰返すのだ――私は終に失・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・手入れの行届いたモーニングを着て、細身のケーンを持ちながら、日影のちらつく歩道の樹蔭を静かに行くのが彼の作品の後姿である。 去年の夏頃米国に来遊して間もなく“Saint's Progress”と云う四百頁余の長篇が出版されて六月から八月・・・ 宮本百合子 「最近悦ばれているものから」
・・・ 眼先にちらつく物を追いはらう様な顔をしながら肇は低い声で云った。 幼い時っから不幸な目にばっかり会って来た自分はこれから何か仕様と云う希望はあってもいつでも何とも知れずそれに手をつけると善くない事が起って来そうに思われていけない。・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・或るところで、何だか悲しく溶けこみきれないのは、作につきまとっている一種ちらちら、ひどくちらつくもののためではないでしょうか。峰から峰へとぶのに、弁天様の着物のように沢山の襞や色どりが翻るようなのだ。今に、その点が洗練されたら、持ち前のよい・・・ 宮本百合子 「読者の感想」
・・・十ならんだ指を見て居ると、この指と指とのはなれたすきから、昼はねて夜になって人間の弱身につけ込んで、その弱身をますます増長させて其の主人の体をはちの巣のようにさせる簾のような遊女の赤いメリンスの着物がちらつく。死にかかったような男の心の中に・・・ 宮本百合子 「ピッチの様に」
出典:青空文庫