・・・嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったこ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・縦いまた樗牛と予との如く、ある関係が有っても、それは言うに足らぬ事であって、今これを人に告ぐる必要を見ない。かように今の文壇の思想の圏外に予は立っていて、予の思想の圏外に今の文壇は立っている。福岡日日新聞が予に文壇の評を書けと曰うのは、我筆・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖の見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟を呼びかけた。「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものよう・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 小川は冷えた酒を汁椀の中へ明けて、上さんの注ぐ酒を受けた。 酒を注ぎながら、上さんは甘ったるい調子で云った、「でも営口で内に置いていた、あの子には、小川さんもわなかったわね。」「名古屋ものには小川君にも負けない奴がいるよ。」主・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附ききりである。渡辺は「給仕のにぎやかなのをご覧」と附け加えた。「あまり気がきかないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」肘を張るようにして、メロンの肉をはがして食べながらいう。・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・ お豊さんの拒絶があまり簡明に発表せられたので、長倉のご新造は話のあとを継ぐ余地を見いだすことが出来なかった。しかしこれほどの用事を帯びて来て、それを二人の娘の母親に話さずにも帰られぬと思って、直談判をして失敗した顛末を、川添のご新・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・デクレスはナポレオンの征戦に次ぐ征戦のため、フランス国の財政の欠乏の人口の減少と、人民の怨嗟と、戦いに対する国民の飽満とを指摘してナポレオンに詰め寄った。だが、ナポレオンはヨーロッパの平和克復の使命を楯にとって応じなかった。デクレスは最後に・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈・・・ 横光利一 「微笑」
・・・それでも稀には、あの荊の輪飾の下の扁額に目を注ぐことがあるだろう。そしてあの世棄人も、遠い、微かな夢のように、人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、疾くに一切折伏し去った物に過ぎぬ。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・彼はその理想の情熱と公憤との権利をもって、何の遅疑する所もなく、大胆に満腹の嘲罵を社会の偽善と不徹底との上に注ぐのである。 しかしドストイェフスキイのメフィストは常にファウストに添って現われて来る。真の生を求めて泣き、苦しみ、恐れ、絶望・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫