・・・を片付けると、必然の成行きとして「重力と加速度の問題」が起って来た。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・道楽のあげくに手を着けるような仕事では決してないのである。「分析」から「総合」に移る前に行なわるる過程は「選択」の過程である。 すべての芸術は結局選択の芸術であるとも言われる。芸術家の素材となりその表現の資料となるものはわれわれの日・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・郵船会社の汽船は半分荷物船だから船足がおそいのに、なぜそれをえらんだのかと私が聞いたら、先生はいくら長く海の中に浮いていても苦にはならない、それよりも日本からベルリンまで十五日で行けるとか十四日で着けるとかいって、旅行が一日でも早くできるの・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・「それじゃ君が云い付けるさ。御菜のプログラムぐらい訳ないじゃないか」「それが容易く出来るくらいなら苦にゃならないさ。僕だって御菜上の智識はすこぶる乏しいやね。明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男な・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そこから我々の自己において明晰判明なる知識の客観性を基礎附けるのである。最高完全者としての神の観念は存在を含むという神の存在の証明は、百円の観念は百円の金貨ではないという如きを以て一言に排斥すべきではない。神はカント哲学の形式によって実在す・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付ける。実習は苗代掘りだった。去年の秋小さな盛りにしていた土を崩すだけだったから何でもなかった。教科書がたいてい来たそうだ。ただ測量と園芸が来ないとか云っていた。あしたは日曜だけれども無・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・それから、何の、走って、走って、とうとう向うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸の黄いろな屋根を見附けると、象はいちどに噴火した。 グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台の上でひるねのさかりで、烏の夢・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・古い服の袖に赤十字の腕章をピンで止めたきりの普通のなりで、その上へいつも研究所で着ている白いブルースを着けるだけで、キュリー夫人はどんな特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということはざらであった。どんなところででも眠らなければならな・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
出典:青空文庫