・・・「白痴なことこくなてえば。二両二貫が何高値いべ。汝たちが骨節は稼ぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその公事には乗んねえだ。汝先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえ事に・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ ずぶてえ阿魔だ。」 と、その鉄火箸を、今は突刺しそうに逆に取った。 この時、階段の下から跫音が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。 さまでの苦痛を堪えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢のよ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・主の抱え車じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯より見っこのねえ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・と車夫は提灯の火影に私の風体を見て、「木賃ならついそこにあるが……私が今曲ってきたあの横町をね、曲ってちょっと行くと、山本屋てえのと三州屋てえのと二軒あるよ。こっちから行くと先のが山本屋で、山本屋の方が客種がいいって話だから、そっちへお行で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 何だい、その吉田てえのは?」「私の亭主の苗字さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだろう、以前や・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・釣れずに家へ帰ると、サア怒られた怒られた、こん畜生こん畜生と百ばかりも怒鳴られて、香魚や山やまめは釣れないにしても雑魚位釣れない奴があるものか、大方遊んでばかりいやがったのだろう、この食い潰し野郎めッてえんでもって、釣竿を引奪られて、逃げる・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 「竿が手に入るてえのは釣師には吉兆でさア。」 「ハハハ、だがまあ雨が降っている中あ出たくねえ、雨を止ませる間遊んでいねえ。」 「ヘイ。時に旦那、あれは?」 「あれかい。見なさい、外鴨居の上に置いてある。」 吉は勝手の方・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ヨウ、起きておしまいてえば。「厭あだあ、母ちゃん、お眼覚が無いじゃあ坊は厭あだあ。アハハハハ。「ツ、いい虫だっちゃあない、呆れっちまうよ。さあさあお起ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。と夜具を奪りにかかる女房は、身幹の少し・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・「冷てえ!」 俺は思わず手をひッこめた。「冷てえ?――そうか、そうか。じゃ、シャツの袖口をのばしたり。その上からにしよう。」「有難てえ。頼む!」「こんな恰好見たら、親がなんて云うかな。不孝もんだ!」 年を取って指先き・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・いっそ患者になりてえくらいだった。ああ、実に面白くない。みじめだ。奥さん、あなたなんか、いいほうですよ。」「ええ、そうね。」 と奥さまは、いそいで相槌を打ち、「そう思いますわ。本当に、私なんか、皆さんにくらべて仕合せすぎると思っ・・・ 太宰治 「饗応夫人」
出典:青空文庫