・・・ ことにこっけいなのは、誰の所へ来たんだか忘れたが、宛名に「しようせんじ、のだやすつてん」というやつがあって、誰も漢字に翻訳することができなかった。それでも結局「修善寺野田屋支店」だろうということになったが、こんな和文漢訳の問題が出れば・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。 「まだか」、この名は村中に恐怖を播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾の昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 伝え聞く、摩耶山とうりてんのうじ夫人堂の御像は、その昔梁の武帝、女人の産に悩む者あるを憐み、仏母摩耶夫人の影像を造りて大功徳を修しけるを、空海上人入唐の時、我が朝に斎き帰りしものとよ。 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦の廂から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をい・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン、おひゃら、ひゅうい、チテン、テン、ひゃあらひゃあら、トテン、テン。」 廓のしらべか、松風か、ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン。あらず、天狗の囃子であろう。杢若の声を遥に呼交す。「唄は、やしこばばの唄・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……でも、お前は先から麺類を断ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」「まあ、嬉しい。」 と膝で確りと手を取って、「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお誂え、夜中一時頃に蕎麦の出前が、芬と枕頭を匂って露路を入ったことを知っているので、行けば何かあるだろう……天気が可いとなお食べたい。空腹を抱いて、げっそりと落込むように、溝の減った裏長屋の格子戸・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうといとうりてんの貴女の、さながらの御かしずきに対して、渠は思わず一礼した。 婦はちょうど筧の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱に雫する花を楯に、破納屋の上路を指して、「その坂をなぞ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・多勢でしたらおもしろかろうと思って二軒いっしょにお互いこの稲刈りをしたのだが、なんだかみんなの心がてんでん向き向きのようで、格別おもしろくなかった。だから今日のしまいごろには清さんも満蔵もおはまも、言い合わさないでつまらなかったとこぼした。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・まるきりないじゃなかったが、あのモズモズした無愛想な男、シカモ女に縁のなさそうな薄汚ない面をした男が沼南夫人の若い燕になろうとは夢にも思わなかったから、夫人の芳ばしくない噂を薄々小耳に入れてもYなぞはテンから問題としなかった。「女が悪い・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫