・・・その原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函する。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。まずい作品であったのだ。表面は、どうにか気取って正直の身振りを示しながらも、その底には卑屈な妥協の汚い虫が、うじゃうじゃ住んでいる・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 右の感想、投函して、三日目に再び山へ舞いもどって来たのである。三日、のたうち廻り、今朝快晴、苦痛全く去って、日の光まぶしく、野天風呂にひたって、谷底の四、五の民屋見おろし、このたび杉山平助氏、ただちに拙稿を御返送の労、素直にかれの・・・ 太宰治 「創生記」
・・・の表紙の上にならべて、家人が、うたう。盗汗の洪水の中で、眼をさまして家人の、そのような芝居に顔をしかめる。「気のきいたふうの夕刊売り、やめろ。」夕刊売り。孝女白菊。雪の日のしじみ売り、いそぐ俥にたおされてえ。風鈴声。そのほかの、あざ笑いの言・・・ 太宰治 「創生記」
・・・あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛てて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・でも私は、この手紙を投函しても、良心の呵責は無かった。よい事をしたと思った。お気の毒な人に、わずかでも力をかしてあげるのは、気持のよいものです。けれども私は此の手紙には、住所も名前も書かなかった。だって、こわいもの。汚い身なりで酔って私のお・・・ 太宰治 「恥」
・・・放電についても放電管内の陽極の縞や、陽極の光った斑点の週期的紋形なども最も興味あるものであり、よく知られてもおりながら、ここでもやはり週期決定因子の研究が奇妙にも等閑に付せられているのである。 また、粘土などを水に混じた微粒のサスペンシ・・・ 寺田寅彦 「自然界の縞模様」
・・・ものばかりでなく、折々は不消化物も与えないと胃の機能が衰えるようなもので、実験中に起るべき種々の困難に出来るだけ遭遇させ、漸次これを除いて最後の結果に到着すると同時に、目的以外の現象にも注意してそれを等閑に附せないような習慣をつけたいもので・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・蝋燭を二梃も立てて一筋の毛も等閑にしないように、鬢に毛筋を入れているのを、道太はしばしば見かけた。それと反対で毛並みのいいお絹の髪は二十時代と少しも変わらなかった。ことにも生えぎわが綺麗で、曇のない黒目がちの目が、春の宵の星のように和らかに・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠って深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあ・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ 自分は、これを投函して来い、そうしてその鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。 しばらくすると裏庭で、子供が文鳥・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫