・・・罪なくして、薄暗い牢獄に投じられた者が幾人あることか! 彼はそんなことを思った。自分もそれにやられるのではないか! 長い机の両側に、長い腰掛を並べてある一室に通された。 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・何処ぞの学校の寄宿舎にでも居ったとか何とかいう経歴がありましたら、下らない談話でも何でも、何か御話し致しましょうけれども。 強て何か話が無いかとお尋ねならば、仕方がありません、わたくしが少時の間――左様です、十六七の頃に通学した事のある・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ころなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうのに、これを悼惜し、慟哭する妻子・眷属その他の生存者の悲哀が、幾万年かくりかえされた結果として、なんびとも、死は漠然とかなしむべし、おそるべしとして、あやし・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・と云って、五十恰好の女が何時でも決まった時間に、市役所とか、税務署とか、裁判所とか、銀行とか、そんな建物だけを廻って歩いて、「わが夫様は米穀何百俵を詐欺横領しましたという――」きまった始まりで、御詠歌のように云って歩く「バカ」のいたのを。と・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・はあなたのような方がいいのだよと彼を抑えこれを揚ぐる画策縦横大英雄も善知識も煎じ詰めれば女あっての後なりこれを聞いてアラ姉さんとお定まりのように打ち消す小春よりも俊雄はぽッと顔赧らめ男らしくなき薄紅葉とかようの場合に小説家が紅葉の恩沢に浴す・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ と張合のない男で、お役替だと云えば御恐悦でございますとか、お目出度いぐらいの事は我々でも陳べますが、七兵衞は面倒だというので、只へえへえという、誠に張合抜がいたします。殿「何うだ見せようか」七「見たって仕様が有りません」殿・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追わ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ さらに一つは、義務とか理想とかのために、人間が機械となる場合がある。ただ何とはなしに、しなくてはならないように思ってする、ただ一念そのことが成し遂げたくてする。こんな形で普通道徳に貢献する場合がある。私も正しくその通りのことをしている・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。 これまで世界中で一ばんはげしかった地震火災は今から十五年前に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフラン・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・誰かが病気になったとか、お金を無くしたとか、誰かが跡を雇い次がれないことになったとかいうようなことを調べているに違いないわ。そんなにしていて獲ものを待つのだわ。水先案内が、人の難船するのを待っていて自分の収入にするのと同じ事だわ。だがね、や・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫