・・・「御主人の前で、何も地理を説く要はない。――御修繕中でありました。神社へ参詣をして、裏門の森を抜けて、一度ちょっと田畝道を抜けましたがね、穀蔵、もの置蔵などの並んだ処を通って、昔の屋敷町といったのへ入って、それから榎の宮八幡宮――この境・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 老病死の解決を叫んで王者の尊を弊履のごとくに捨てられた大聖釈尊は、そのとき年三十と聞いたけれど、今の世は老者なお青年を夢みて、老なる問題はどこのすみにも問題になっていない。根底より虚偽な人生、上面ばかりな人世、終焉常暗な人生…… ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自を初め今は疾くに鬼籍に入った木村鐙子夫人や中島湘烟夫人は皆当時に崛起した。国木田独歩を恋に泣かせ、有島武郎の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿夫人はその頃のチャキチャキであっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者の沓の紐を解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄大の感あらしめるのはこの両管領との合戦記であるから、最後の幕を飾る場面としてまんざら無用でないかも知れない。 が、『八犬・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・云う、人類の審判に関わるイエスの大説教(馬太伝二十四章・馬可は是猶太思想の遺物なりと称して、之を以てイエスの熱心を賞揚すると同時に彼の思想の未だ猶太思想の旧套を脱卻する能わざりしを憐む、彼等は神の愛を説く、其怒を言わない、「それ神の震怒は不・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
曠野と湿潤なき地とは楽しみ、沙漠は歓びて番紅のごとくに咲かん、盛に咲きて歓ばん、喜びかつ歌わん、レバノンの栄えはこれに与えられん、カルメルとシャロンの美しきとはこれに授けられん、彼らはエホバの栄を見ん、我・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 海や砂山や、空にかがやいている日の光には、すこしの変わりがなかったけれど、天地は急におし黙ってしまって、なにもかも、おしのごとくに見られたのです。 そして、赤い船の影は、波間にうすれて、見えたり、消えたりしています。 洋服を着・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・こんなに汽車は疾く走っています。」といいました。 これを聞くと、くまは、さげすむような、また、あわれむような目つきをして、鶏をながめていました。そしていいました。「おまえさんは、羽を持っているじゃないか。なんのための羽なんですか。私・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・私は、こゝに良心ある一人を動かし、万人を動かし、やがて地上の全社会を動かす信念の力について改めて説くまでもないことを感じます。 今日では、レーニンを殺伐な組織の上の革命家とのみ見るものは少なくなったようです。彼は、殉教者であり、熱烈な無・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・雇い婆は二階へ上るし、小僧は食台を持って洗槽元へ洗い物に行くし、後には為さん一人残ったが、お光が帯を解く音がサヤサヤと襖越しに聞える。「お上さん」と為さんは声をかける。「何だね?」と襖の向うでお光の返事。「お上さんはどこへ行った・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫