・・・その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然としたまわんか。トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ とがたりと大戸引開けたる、トタンに犬あり、颯と退きつ。 懸寄るお通を伝内は身をもて謙三郎にへだてつつ、謙三郎のよろめきながら内に入らんとあせるを遮り、「うんや、そう」 というよりはやく、弾装したる猟銃を、戦きながら差向けつ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 今日は方々にお賽銭が多い。道中の心得に、新しく調えた懐中に半紙があった。 目の露したたり、口許も綻びそうな、写真を取って、思わず、四辺を見て半紙に包もうとした。 トタンに人気勢がした。 樹島はバッとあかくなった。 猛然・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょう・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ この犬が或る日、二葉亭が出勤した留守中、お客が来て格子を排けた途端に飛出し、何処へか逃げてしまってそれ切り帰らなかった。丁度一週間ほど訪いも訪われもしないで或る夕方偶と尋ねると、いつでも定って飛付く犬がいないので、どうした犬はと訊くと・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・とは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦れ寄りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処に誰も居ないものが、スーウと格・・・ 小山内薫 「因果」
・・・ すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直ぐ側に立っている見物の一人に、おいしいから食べて御覧なさいと言いました。 途端に、空から長い網がするすると落ちて来ました。それが、見ている間に、するするするすると落ちて来て、・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・やがて天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで行き、それから阪和電車の線路伝いに美章園という駅の近くのガード下まで来ると、そこにトタンとむしろで囲ったまるでルンペン小屋のようなものがありました。男はその中へもぐりました。そこがその・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した彼が、勇敢にも駈け出した途端に両手に煉瓦を持つて待ちぶせてゐた一人が、立てつづけに二個の煉瓦を投げつけ、ひるむところをまたもや背後から樫棒で頭部を強打したため、かの警官はつひにのめるやう・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫