・・・やらし人やなというKの言葉を平然と聞流しながら、生唾をのみこみのみこみ、ぶぶ漬の運ばれて来るのを待っていると、やがて、お待ちどうさんと前へ据えられた途端、あッ、思わず顔が赧くなって、こともあろうにそれはお櫃ではないか。おまけに文楽の人形芝居・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。 筧は雨がしばらく降らないと水が涸れてしまう。また私の耳も日によってはまるっきり無感覚のことがあった。そして花の盛りが過ぎてゆくのと・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなこと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。トタン屋根を撲つ音。やつでの葉を弾く音。枯草に消える音。やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。と、白い冬の面紗を破って近くの邸からは鶴の啼き声が起こった。堯の心・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・――途端自分は足を滑らした。片手を泥についてしまった。しかしまだ本気にはなっていなかった。起きあがろうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑って行った。今度は片肱をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体は止った。止った・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・ 源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返って見た。途端に罪の無い笑は二人の面に溢れて、そして娘の歩は少し疾くなり、源三の歩は大に遅くなった。で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んで来た冷たい風に燈火はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯これ一瞬の事で前後はなかった。 屋外は雨の音、ザアッ。・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・というは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から来る反射が、まともにわたしの家の入口の格子をも露地に接した窓をも射るからであった。わたしはまだ日の出ないうちに朝顔に水をそそぐことの発育を促すに好い方法であると知って、それを毎朝の日課のようにし・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀、そこにある蔦の蔓、すべて身にしみるように思われてきた。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・日に光るトタン葺きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。 東京まで出て行って見ると、震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫