・・・しかしそれはいつまでも見た人の心に美しい永遠の響を留める。そしてその余韻は、その人の生活をいくぶんでも浄化するだけの力をもっている。こういう美しいものを見たときと見なかった時とで、その後に来る吾人の経験には何らのちがった反響がない訳にはゆか・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・黄いろい皮の面に薄緑の筋が六、七本ついているその形は、浮世絵師の描いた狂歌の摺物にその痕を留めるばかり。西瓜もそのころには暗碧の皮の黒びかりしたまん円なもののみで、西洋種の細長いものはあまり見かけなかった。 これは余談である。わたくしは・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・ですけれどそれをどうして私に止めることができましょう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな処に使わないで下さい。 いいえ、ようございます、どんな処にでも使って下さい。私の恋人は、どんな処に埋められても、その処々によってき・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」「あれは東雲さんの座敷だろう。さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・でも夫の心は繋ぎ留めることが出来ませんでしたの。 ―――――――――――――――――――― 翌日の午後二時半にピエエル・オオビュルナンは自用自動車の上に腰を卸して、技手に声を掛けた。「ド・セエヴル町とロメエヌ町と・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・まだ小さいのに気が荒かったゆえ、走り廻ってばかりいて、あれ危ないと思っても止める事が出来なんだ。ああ、この窓じゃ。あの子が夜遊に出て帰らぬ時は、わたしは何時もここに立って真黒な外を眺めて、もうあの子の足音がしそうなものじゃと耳を澄まして聞い・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・格堂はさきへ往て左千夫の外出を止める役になった。 昼餉を食うて出よとすると偶然秀真が来たから、これをもそそのかして、車を並べて出た。自分はわざと二人乗の車にひとり横に乗った。 今年になって始めての外出だから嬉しくてたまらない。右左を・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・救助区域はずうっと下流の筏のところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにもいかず、時々別の用のあるふりをして来て見ていてくれたのです。もっと談しているうちに私はすっかりきまり悪くなってしまいました。なぜなら誰で・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・まるで、その一度きりの日にさえ、妻の外出を止めるお前は良人なのかと云う詰問が含まれてでもいるようではないか。依岡の女中が一年にたった一度のクリスマスなんかと云うものか、この婆さん! 彼は、真白い、二つ積ねの枕の上に仰向いたまま云った。・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫