・・・ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握することの喜びには、別に変わりはないであろう。 それだのに文学と科学とい・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・その前に据えた机の上にのせたポータブルの蓄音機から何かは知らないが童謡らしいメロディーが陽気に流れ出している。若い婦人で小学校の先生らしいのが両腕でものを抱えるような恰好をして拍子をとっている。まだ幼稚園へも行かれないような幼児が多いが、み・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・そして自然にこんな童謡のようなものが口ずさまれた。「三毛のお墓に花が散る。こんこんこごめの花が散る。芝にはかげろう鳥の影。小鳥の夢でも見ているか。」それからあとで同じようなものをもう三つ作って、それに勝手な譜をつけていいかげんの伴奏をもつけ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・其の時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、可笑しい程主従の差別のついて居た事が、一挙一動思出される。 何事にも極く砕けて、優しい母上は田崎の様子を見て、「あぶないよ、お前。喰いつかれでもするといけないから、お止しな・・・ 永井荷風 「狐」
・・・汽車で明す夜といえば動揺する睡眠に身体も頭も散々な目に逢う。動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚が垢だらけになったような気がする。いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・彼の心は劇しく動揺して且つ困憊した。「それじゃ三次でも連れて来べえ」 対手は去った。太十は一隅を外した蚊帳へもぐった。蚊帳の外には足が投げ出してあった。蠅が足へたかっても動かなかった。犬は蔭の湿った土に腹を冷して長くなって居た。二人・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と云う訳で、少しでも労力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現われてここに一つの波瀾を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が開化の中に起って、各部の比例がとれ平均が回復されるまでは動揺してやめられないのが人間の本来であります。積極的活力の・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉まれながら毫も借り着をして世間体を繕っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・主客の対立を形式と内容または質料との対立に代えても同様である。フィヒテに至っては、周知の如く、かかる不徹底的矛盾を除去すべく、認識主観の実体化の方向に進んだ。述語的主体は自己自身を限定する形而上学的実体となった。それがフィヒテの超越的自我で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・人々は各ニイチェの多様質の宇宙の中から、夫々の部分をとつて自家の食餌にしてゐる故、見方によればそのすべてがニイチェズムでもあるけれども、同様にまた、そのすべてがニイチェズムでないのである。甚だしきは独逸近代の軍国主義さへも、ニイチェの影響だ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫