・・・鉄瓶には湯が煮え沸っていた。小さな机兼食卓の上には、鞄の中から、出された外国の小説と旅行案内と新聞が載っている。私は、此の室の中で、独り臥たり、起きたり、瞑想に耽ったり、本を読んだりした。朝寒いので、床の中に入っていたけれど、朝起きの癖がつ・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・そこへちょうど吉新の方から話があって、私も最初は煮えきらない返事をしていたんだけど、もう年が年だからって、傍でヤイヤイ言うものだから、私もとうとうその気になってしまったようなわけでね……金さん、お前さんも何だわ――今さらそう言ったってしよう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配に煮えて来よったやろ」長い竹箸で鍋の中を掻き廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そして最初に訪ねて来た時分の三百の煮え切らない、変に廻り冗く持ちかけて来る話を、幾らか馬鹿にした気持で、塀いっぱいに匐いのぼった朝顔を見い/\聴いていたのであった。所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれて来る。秘やかな情熱が静かに私を満たして来る。 この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・業が煮えて堪らんから乃公は直ぐ帰国ろうと支度を為ているとちょうど高山がやって来て驚いた顔をしてこう言うのだ、折角連れて来たのだから娘だけは井下伯にでも托けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡が可憐そうだと言ッて、大・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・サア話しが段々煮えて来た、ここへ香料を落して一ト花さかせる所だ。マア聞玉え、ナニ聞ていると、ソウカよしよし。ここで万物死生の大論を担ぎ出さなけりゃならないが、実は新聞なんぞにかけるような小さな話しではなし一朝一夕の座談に尽る事ではないから、・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・おげんに言わせると、この弟達の煮え切らない態度は姉を侮辱するにも等しかった。彼女は小山の家の方の人達から鋏を隠されたり小刀を隠されたりしたことを切なく思ったばかりでなく、肉親の弟達からさえ用心深い眼で見られることを悲しく思った。何のための上・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 何だか煮えきらない。藤さんが今度来たのはどうしたのだというのか。何かおもしろくない事情があるのであろうか。小母さんは何とか言いかけてひょっくり黙ってしまった。藤さんはどうして九月から家を出ているのか。この対岸のどんな人のところにいるの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そのうちに、小さな一ぴきの魚が、半煮えになって、ひょこりと、地面へはね上りました。魚はもうあつくて/\たまらないので、土にふれると、すぐにもとの王女になりました。王子は大よろこびで、そばへかけつけて「どうです、とうとう三晩ともちゃんとつ・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
出典:青空文庫