・・・ 見習は、六尺位の仁王様のように怒った。「ほんとかい」「ほんとだとも」 水夫たちは、ボースンと共に、カンカン・ハマーを放り出したまま、おもてへ駆け込んだ。「何だ! あいつ等あ」 ブリッジを歩きまわっていた、一運は、コ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ぽうッとしかも白粉を吹いたような耳朶の愛らしさ。匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・オゾーンに充ちた、松樹脂の匂う冬の日向は、東京での生活を暗く思い浮ばせた。陽子は結婚生活がうまく行かず、別れ話が出ている状態であった。「あああ、私も当分ここででも暮そうかしら」「いいことよ、のびのびするわそりゃ」「――部屋貸しを・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ すると、勇吉は、粗朶火を持たない左の手で、怒り猛る仁王のようにおしまにつかみかかりながら罵りかえした。「へちゃばばあ! ええ気になりくさって、おれを何だと思う! 亭主だぞ! 憚んながらこの家の主人だ! 何、何、何をしようとおれの勝・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 変に匂うぜ……」 一言が、思い掛けない結果になった。グラフィーラは、刺されたように床から跳び上った。「いやかい? いやんなって来たのかい私が。知ってるよ、いやなのは! そう云いな。何故だましてるんだ? どうして私を嬲もんにしてるん・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・何でも松平さんの持地だそうであったが、こちらの方は、からりとした枯草が冬日に照らされて、梅がちらほら咲いている廃園の風情が通りすがりにも一寸そこへ入って陽の匂う草の上に坐って見たい気持をおこさせた。 杉林や空地はどれも路の右側を占めてい・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・青春の美しさは、それなりの麗わしさとして感ぜられず、娘盛り、お嫁入りと常識のなかで結びつけられていたからこそ、白粉が匂うことにもなったのだと思う。女性の一生の見かたのなかに日頃からそういうモメントがふくまれていることには寸毫も思いめぐらさな・・・ 宮本百合子 「歳月」
・・・ 房々と白い花房を垂れ、日向でほのかに匂う三月の白藤の花の姿は、その後間もなく時代的な波瀾の裡におかれた私たち夫婦の生活の首途に、今も清々として薫っている。 その時分、古田中さんのお住居は、青山師範の裏にあたるところにあった。ある夏・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・きょう、塀そとを通る私たちに見えるものは、昔ながらの丸善工場のインクの匂う門のあたりに、繁った古い樫の梢ばかりである。 その時分、この辺にほんとに、からたちの垣根が沢山あった。松平の空地をめぐって、からたち垣があるばかりでなく、その斜向・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ しめりはじめた草むらが匂う道を歩きながら牧子がきいた。「よくって云えるかどうかしらないけれど――なあぜ?」「たしか、瀬川の御友達のかただったと思うんですけれど……わたしは御存じないんです」 きょうが目には見えない女と子供の・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫