・・・やがて二人で大立廻りをやって、女房は髪を乱して向いの船頭の家へ逃げこむやら、とうと面倒なことになったが、とにかく船頭が仲裁して、お前たちも、元を尋ねると踊りの晩に袖を引き合いからの夫妻じゃないか。さあ、仲直りに二人で踊れよおい、と五合ばかり・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「井伏の小説は、実に、逃げ足が早い。」 また、或る人は、ご叮嚀にも、モンテーニュのエッセエの「古人の吝嗇に就いて」という章を私に見せて、これが井伏の小説の本質だなどと言った。すなわち、「アフリカに於ける羅馬軍の大将アッチリウ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・猿がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄に自分で一生懸命につかまって捕われるのを待つのである。 ごちそうに出した金米糖のつぼにお客様が手をさし込んだらどうしても抜けなくなったのでし・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げて来てから、色々なことをやりましたが、火事にも逢や、女房にも死別れた。忘れもしねえ、暑い土用の最中に、餒じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・するともう、私の足はすくんでしまって、いそいで逃げだそうと思うが、それより早く、「あッ、徳永だ――」 と、だれかが叫ぶ。するとまた、「ホントだ、あいつこんにゃく屋なんだネ」 と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまで・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・一家中、何時とはなく、狐は何処へか逃げてしまった。狐ではなく、あれも矢張り野良犬であったのかも知れぬと、自然に安堵の色を見せるようになった。もう冬である。「寒くなってから火鉢の掃除する奴があるか。気のきかん者ばかり居る。」と或朝、父の小・・・ 永井荷風 「狐」
・・・子供の時分ですからその声を聞くと、ホラ来たと云って逃げたものである。よくよく聞いて見ると鼠取りの薬を売りに来たのだそうです。鼠のいたずらもので人間のいたずらものではないというのでやっと安心したくらいのものである。そんな妙な商売は近頃とんと無・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、――いい方法を、と、それが汗の・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・しかしそれは一昨日あなたに御挨拶をいたさずに逃げ出そうと決心いたしたのが子供らしいと申すのではございません。それはわたくしが最初あなたに手紙を差上げて御面会がいたしたい、おいでを願いたいと申したのが子供らしいと申すのでございます。 こう・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・其処らの叢にも路にもいくつともなく牛が群れて居るので余は少し当惑したが、幸に牛の方で逃げてくれるので通行には邪魔にならなかった。それからまた同じような山路を二、三町も行た頃であったと思う、突然左り側の崖の上に木いちごの林を見つけ出したのであ・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫