・・・そこで駈けだすようにして、車夫に教わったその横町へ入ると、なるほど山本屋という軒行灯が目に入った。 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・女がいくら威張ったって男湯へ入ることは出来めえ。やあい、莫迦野郎!」 男湯から来た声は健坊だ、と判ると安子はキッとした顔になり、「入ったらどうするッ」「手を突いて謝ってみせらア」「ふうん……」「手を突いて、それから、シャ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・何がさて空想で眩んでいた此方の眼にその泪が這入るものか、おれの心一ツで親女房に憂目を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって漸う漸う眼が覚めた。 ええ、今更お復習しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。 しかし彼・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……「……K君――」「どうぞ……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・またある時それは腰のあたりに湧き出して、彼の身体の内部へ流れ入る澄み透った溪流のように思えた。それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。「俺はだんだん癒ってゆくぞ」 コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻の湖は眼の前に出でぬ。 円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 会堂に着くと、入口の所へ毛布を丸めて投げ出して、木村の後ろについて内に入ると、まず花やかな煌々としたランプの光が堂にみなぎっているのに気を取られました。これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。次にふわりとした暖かい空・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・だからこのごろときどき耳にする恋愛結婚より、見合結婚の方がましだなどと考えずに結婚に入る門はやはりどこまでも恋愛でなくてはならぬ。純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理想を立てようなどというのは、霊の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇を得たことを喜び、行住坐臥に法華経をよみ行ずること、人生の至悦であると帰依者天津ノ城主工藤吉隆に書いている。 二年の後に日蓮は許されて鎌倉に帰・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経験せずにはいられなかった。主計には頭が上らないから、兵卒のとこ・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫