・・・しかし嗄れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始め・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・それでもそんなことをしている中に、二人は段々岸近くなって来て、とうとうその顔までがはっきり見える位になりました。が、そこいらは打寄せる波が崩れるところなので、二人はもろともに幾度も白い泡の渦巻の中に姿を隠しました。やがて若者は這うようにして・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そうしたら、何もかもはっきり分かるだろうに。 ところで、その骨折が出来ない。フレンチはこの疑問の背後に何物があるかを知ることが出来ない。 それは実はこうであった。が、あのまだ物を見ている、大きく開けた目の上に被さる刹那に、このまだ生・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・――気をはっきりとしないか。ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札だ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらく熟と視ていたが、そんなはり紙は気も影もなかったよ。――何だとえ?……昼間・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・物の影もその形がはっきりとしない。しかしその間の色が最も美しい。ほとんど黄金を透明にしたような色だ。強みがあって輝きがあってそうして色がある。その色が目に見えるほど活きた色で少しも固定しておらぬ。一度は強く輝いてだんだんに薄くなる。木の葉の・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 女学生ははっきりした声で数を読みながら、十二歩歩いた。そして女房のするように、一番はずれの白樺の幹に並んで、相手と向き合って立った。 周囲の草原はひっそりと眠っている。停車場から鐸の音が、ぴんぱんぴんぱんというように遠く聞える。丁・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 今度の戦争の事に対しても、徹底的に最後まで戦うということは、独逸が勝っても、或は敗けても、世界の人心の上にはっきりした覚醒を齎すけれども、それがこの儘済んだら、世界の人心に対して何物をも附与しないであろう。・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・水ぎわには昼でも淡く水蒸気が見えるが、そのくせ向河岸の屋根でも壁でも濃くはっきりと目に映る。どうしてももう秋も末だ、冬空に近い。私は袷の襟を堅く合せた。「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂け・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・このままで行ったんでは俺の健康も永いことはないということが、このごろだんだんはっきりと分ってきた。K君、おふくろ、T君はまたあんなことになるし、今度はどうしても俺の番だという気がして、俺もほんとに怖くなってきた。ここは昔地獄谷といって罪人の・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫