・・・ 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」 娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・弟の方は、あぶない足どりでやって来ながら、与助の膝にさばりついた。「そら、そら、やるぞ。」 彼が少しばかりの砂糖を新聞紙の切れに包んで分けてやると、姉と弟とは喜んで座敷の中をとび/\した。「せつよ、お父うに砂糖を貰うた云うて、よ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ヤマカン会社で、地方のなにも知らん慾ばりの爺さんどもを、一カ年五割の配当をすると釣って金を出させ、そいつをかき集めて、使いこんで行くというやり方だった。ジメ/\した田の上に家を建てゝ、そいつを貸したり、荷馬車屋の親方のようなことをやったり、・・・ 黒島伝治 「自伝」
・・・三人が歩くと、それがバリ/\と靴に踏み砕かれて行った。 一町ほど向うの溝の傍で、枯木を集めようとして、腰をのばすと浜田は、溝を距てゝ、すこし高くなった平原の一帯に放牧の小牛のような動物が二三十頭も群がって鼻をクンクンならしながら、三人を・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・けれども、一家が揃って慾ばりで、宇一はなお金を溜るために健二などゝ一緒に去年まで町へ醤油屋稼ぎに行っていた。 村の小作人達は、百姓だけでは生計が立たなかった。で、田畑は年寄りや、女達が作ることにして、若い者は、たいてい町へ稼ぎに出ていた・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 右を見ると、よく酒保の酒をおごって呉れた上等兵が毛布の下に脚を立て、歯を喰いしばりじっと天井を見つめていた。その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。「自分がうるさいから・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・二人がバリ/\雪を踏んでそこへかかるなり、すぐそのさきの根本から耳の長いやつがとび出した。さきにそれを見つけたのは吉田であった。「おい、俺にうたせよ――おい!……」 小村は友の持ち上げた銃を制した。「うまくやれるかい。」「や・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ですから私の就学した塾なども矢張り其の古風の塾で、特に先生は別に収入の途が有って立派に生活して行かるる仁であったものですから、猶更寛大極まったものでした。紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭して御・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ときっばり言った。「ウム、諦めることは諦めるよ。だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗を大切にする、飲酒家は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」「だって、今出してまいったのも同じ永楽で・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 矢張り東京へ出してやったのが悪かった、と母親は思った。何時でも眼やにの出る片方の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれて、何んでもなくても独りで涙がポロポロ出るようになった。 角屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のこ・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
出典:青空文庫