・・・ かくのごとく我儘であるくせにまた甚だしく臆病な彼は、自分で断然年賀端書を廃して悠然炬燵にあたりながら彼の好む愚書濫読に耽るだけの勇気もないので、表面だけは大人しく人並に毎年この年中行事を遂行して来た。早く手廻しをすればよいのに、元日に・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・むしろ非常にさびしい感じばかりして、そのころから自分は次第にわれとわが身を削るような、憂鬱な空想にふけるようになってしまった。自分が不治の病を得たのもこのころの事であった。 三 栗の花 三年の間下宿してい・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を生ずるだろう。……この弊を・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・ 募集した絵をゆっくり一枚一枚点検しながら、不折や虚子や碧梧桐を相手に色々批評したり、また同時に自分の描いておいた絵を見せたりして閑談に耽るのがあの頃の子規の一つの楽しみであったろうということも想像される。 ともかくもあの頃の『ホト・・・ 寺田寅彦 「明治三十二年頃」
・・・とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴える。外には程近い山王台の森から軒の板庇を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・僕等は一時全く忘れていた自然派文学の作例を思出して之を目前の光景に比較し、西洋の過去と日本の現在との異同を論じて、夜のふけるのを忘れたこともたびたびとなった。 斯くの如く僕等がカッフェーに出入することの漸く頻繁となるや、都下の新聞紙と雑・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・彼の癇癖は彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・夜はだんだん更ける。 時々篝火が崩れる音がする。崩れるたびに狼狽えたように焔が大将になだれかかる。真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛げ込んで行く。しばらくすると、火がぱちぱちと・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩い・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・反対に孤独癖の人間は、黙って瞑想に耽ることを楽しみとする。西洋人と東洋人とを比較すると、概してみな我々東洋人は、非社交的な瞑想人種に出来上ってる。孤独癖ということは、一般的には東洋人の気質であるかも知れないのだ。深山の中に唯一人で住んでる仙・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫