・・・ 女房は、すこし、不審かしそうに、利平の顔を見た。「かまやしないじゃないの、あんな恩知らずだもの」「ウム、そりゃそうだが!」 彼は、女房の手を離れて、這い出して来た五人目の女の児を、片手であやしながら、窓障子の隙から見える黒・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向いになって、もとの処に仮普請の堂を留めているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。明治三十年頃、わたくしが『たけ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・という事から、モオリスは世のいわゆる高尚優美なる紳士にして伊太利亜、埃及等を旅行して古代の文明に対する造詣深く、古美術の話とさえいえば人に劣らぬ熱心家でありながら、平然として何の気にする処もなく、請負普請の醜劣俗悪な居室の中に住んでいる人が・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐溜から出て三十間堀の堀・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・に人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根を並べている。普請中の貸家も見える。道の上には長屋の子・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・お石が来なくなってから彼は一意唯銭を得ることばかり腐心した。其年は雨が順よく降った。彼はいつでも冬季の間に肥料を拵えて枯らして置くことを怠らなかった。西瓜の粒が大きく成るというので彼は秋のうちに溝の底に靡いて居る石菖蒲を泥と一つに掻きあげて・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とアーサーは王妃の方を見て不審の顔付である。「美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐を寄せたりとも見えず。 アーサーは椅子に倚る身を半ば回らしていう。「御身とわれと始めて逢・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・生きるか生きるかと云うのはおかしゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮す・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」 婆さんの顔は土のようである。何か云おう・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・るようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の機関として上流の人に用いられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、ただ自家専門の職業にのみ腐心してはいられないものだという例に御話・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
出典:青空文庫